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kaidaten's blog~書評ノート~

日経新聞の要約や書評を中心にエントリーしてましたが、最近はざっくばらんにやってます。

生活にいきる信仰

 

書評

生活にいきる信仰

生活にいきる信仰

 

釈尊の仏法の威力が無くなった現世において、衆生を救う究極の教えとして釈尊の経典を読み解き、日蓮が見出したのが「法華経」である。そしてこの法華経を実践するための御言葉として日蓮が認められた言葉が「南無妙法蓮華経」という七文字である。

 

その後、創価学会という宗教法人が現世に生まれ、この法華経の仏法を世に広め、今尚その教えは国境を越えて全世界に拡大している。

 

この一冊は、創価学会幹部が学会員向けに書いたものであり、仏法の教えを語る入門書のようなもの。その内容には過去・現代の偉人の教えに共通する部分がいくつもある。

 

具体的な目標を定めそれを祈念し、行動に移し成就を勝ち取る

 

日蓮の教えが、他の偶像崇拝と根本的に異なるのは、自分自身が変わるための仏法であるということ。偶像崇拝は神を信じ祈りを捧げれば、大きな存在に自分自身の願いを叶えてもらうという教え。南無妙法蓮華経の教えは、自分自身の中の仏界を開き、自身の宿業さえ乗り越え自分自身を変革していくという教えだ。

 

これまで、様々な自己啓発書を読んできたが、その全てで触れられているのが、「心の持ちよう=マインド」。見えない大きな力についても量子力学の観点などから科学的に言及されている。それらはいわゆる引き寄せの法則と呼ばれていたり、原因と結果の法則と呼ばれていたり、様々な呼称で語られている。ある意味この世の真理である。南無妙法蓮華経の教えはやはりそれら全ての法則を包含しており、尚且つ信仰者に驚くべき力を与えてくれる最高の仏法だ。

 

自分自身生まれた頃から学会員で、より客観的にこの仏法を学ぶために様々な書籍を読んできた。結果、自分自身の宗教の正当性を確信するに至った。かつて私は、何冊もの自己啓発書を読み漁った。一時的な高揚感を得ては、自分は変わるんだと心躍らせた。しかし実際には、書籍に書かれている内容を日々実践することはなく、むしろ少しずつ退転していく始末だった。しかし、今現在、創価学会の教えの元で活動することで、多くの自己啓発書に書かれていた内容を自然と実践できており、幸福度は以前より明らかに上昇している。特に、己のことしか考えられなかった自分が、「他人のために祈り、行動することができるようになったこと」に驚いている。周りからも本当に人が変わったようだと言って頂けるようになった。この効果は、南無妙法蓮華の教えがとことん生活に根ざしたものであることに起因する。今まで創価学会の活動に反発するような時期も少なからずあったが、今、自分の宗教(御本尊)を心から信じる気持ちを抱けるようになって本当によかったと思う。

 

 

 

 

内容抜粋

池田先生(創価学会名誉会長)も、「仏法は、一人の人間の『無限ともいえる可能性』を認めることから出発する。『仏界』という最高の宝が、自身の胸中にあることを目覚めさせ、それを引き出す方途を教えているのです」と話され、日蓮大聖人の仏法の実践によって「この自身の生命を、清浄にして無限の力強き『仏界』の生命へと変革していく。何があっても、いっさいを幸福へ幸福へと、受け、用いていくことのできる人生となる」と教えられています。

 

戸田先生は、「我々は何のために生まれてきたのか。それは『衆生所有楽』と法華経にあるように、遊びに来たのである。だから、人生を楽しまなければ、つまらないではないか。御本尊を信じきった時に、生きていること自体が楽しい、何をやっても楽しいという人生になれるのである」と話されています。また、「世の中」を、幸せに楽しむためにはどうすればいいか。お金も、体力も、そして生命力がなくてはならない。それは、理屈や単なる努力だけでは得られない。御本尊様を拝まなければ、絶対にそうはならない」と教えられ、多くの人々を救われています。牧口先生も戸田先生も、人生の目的は幸福になることであり、そのためには、大聖人の仏法を正しく実践する以外にないことを、大確信をもって教えられたのです。

 

末法法華経は南無妙法蓮華

釈尊の教えの究極は、「諸教の王」「経王」と呼ばれた法華経妙法蓮華経)でした。「人間は皆、尊い」「自分自身が仏である」ーこれが法華経のメッセージです。釈尊は「皆、私と同じ仏になれる。この法華経を説いたことによって、私の昔からの誓願は満足した」と述べています。仏界という最高の宝が自身の胸中にあることを自覚させ、それを引き出す方途を教えたのが法華経だったのです。

 

縁によって現れる十の境涯

人間の生命の状態や境涯は、瞬間瞬間に変化していきます。天台大師は、法華経の法理に基づいて、一念(瞬間の生命)が三千種類に変化する、と分析しました。これを「一念三千」の法門といいます。その基本が、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏の「十界(十の境界)」です。だれ人の生命も、瞬間瞬間にこの十の境界のどれかが現れているのです。

地獄界とは、苦しみや悩みに支配された「不幸な生命状態」をいいます。

餓鬼界とは、欲望に支配された「飢えている生命状態」をいいます。

畜生界とは、動物のように「本能に支配された生命状態」をいいます。

修羅界とは、他人に負けたくないという「エゴの生命状態」であり、争いの命です。

人界とは、人間らしい「平静な生命の状態」であり、一家団欒の時などをいいます。

天界とは、願いが叶って満足した時などの「喜びの生命状態」といえます。

声聞界とは、知識を身につけて成長しようとする「知的向上の生命」といえます。

縁覚界とは、なにかの縁によって法則をさとったり、創造の喜びを感ずる生命です。

菩薩界とは、他人の利益を考えて行動する「思いやりの生命」をいえます。

仏界とは、強い生命力と豊かな智慧の働きとも、自分も幸せを感じ、他人も幸福にしていける清浄な境涯ともいえます。

そうした十の境涯は、さまざまな「縁」によって現れてきます。今、テレビを見て笑っていた人が、身内の不幸を知らせる電話がかかってくれば、たちまち悲しみに支配されてしまうように、瞬間瞬間、縁にふれて変化しているのです。

 

「仏界」という、「幸福の可能性」「最も強い生命力と豊かな智慧」は、だれ人の生命の中にも、本来、備わっています。しかし、十界のうち他の九界 は、現実の生活の中でもそれが現れるチャンス(縁)がありますが、「仏界」だけは、普通の生活の中にはそれを引き出すチャンス(縁)がありません。そのため、日蓮大聖人は、人々が具えている仏界を引き出す「善き縁」として、「日蓮のたましい(仏の生命)をすみにそめながして書いた」御本尊を顕してくださったのです。

したがって、御本尊を信じて題目を唱えることは、御本尊から力をもらうのではなく、自分自身の中にある「仏界」という働きを引きだすためなのです。言い換えれば、自分自身の「生命の素晴らしさ」を「自覚」して「引き出す」ことが、御本尊に唱題する目的なのです。例えば、「病気を治そう」と決めて祈ると、病気を治すのに必要なあらゆる生命の力が湧いてくるので、病魔に打ち勝ち、健康になれるのです。「この悩みを解決しよう」と決めて祈れば、悩みを解決するのに必要なあらゆる働きが働いて、必ず解決するのです。

 

一切の衆生は、仏の教えを信ずることによって成仏できるのです。池田先生は、「どこまでも信心が基準である。学問ではない。地位でもない。名誉でも財産でもない。ここに世間の次元とはまったく異なる、仏法の絶対的な観点がある。たとえ、なにがなくとも、正しき信心を貫く人は、必ず永遠の幸福境涯に至る。反対に信心なき人はむなしく暗い境涯である。この厳しき理法を深く銘記していきたい」と話されています。

 

決めて祈って動けば結果が出る

信仰を実践するうえでも、「功徳の体験」を積み重ねれば、「信が深まる」のは当然でしょう。反対に、体験がない信仰は、観念的になり、しだいに行き詰まっていきます。それでは、どうすれば体験できるのかといえば、決意と目標を明確な信心を貫くことです。「何を、いつまでに、どうするのか」と、具体的な「目標を決め」て、御本尊に強く「祈り」、必要な「行動・実践」を貫けば、明確な結果と功徳が出るはずです。つまり、「決めて、祈って、動けばー結果が出る」といえます。

なお、「決める」目標は、広布の活動のうえでの目標だけではなく、自分自身が「変わる」目標ー解決すべき目標、実現したい目標、宿命転換の目標、成長の目標などーを立てることが大切です。そうでないと、「活動の体験」「目標を達成した体験」をすることはできても、「功徳の体験」「変革と成長の体験」を積むことはできないからです。

 

「意味がわからずに経文を読誦しても、功徳があるのだろうか」という疑問を持つ人がいるかもしれませんが、池田先生は、こう話されています。「赤ん坊が、お乳を飲めば知らず知らず大きく育っていくのと同じように、御本尊を信じて妙法を唱えきっていくなら、必ず無量の福徳が輝いていくのです。また例えば、犬には犬の、鳥には鳥の世界の言葉があります。人間にはわからないが、犬同士、鳥同士には確かに通じ合っているにちがいない。また、学術用語、外国語なども、他の人にはわからなくても、これもまた立派に通じます。同じように、勤行・唱題の声は、仏・菩薩の世界の言葉であるといえます。たとえ意味はわからなくても、きちんと御本尊に通じ、諸天善神、三世十万の仏・菩薩の世界に通じていく。そして、全宇宙が私たちを 福光で包んでいくのです。

 

池田先生は、「大聖人は、一遍の題目にも、かぎりない功徳があると仰せである。いわんや、日々の勤行・唱題に励む人に、どれほどの功徳が備わることか。たとえ方便品・自我偈の勤行や唱題だけしかできないことがあったとしても、それで罰が出るなどと、心配する必要は絶対にない。勤行をしよう、唱題をしようという信心の心こそが、仏に感応し、無量の福徳が備わっていく。大切なのは、その信心の心であり、実践の持続であり、日々、向上し前進していく事実の姿である」と話されています。

 

学会員は決して、『民衆の幸福』という根本目的を忘れてはならない。ここに仏法の本意がある。しかし、既成仏教も含め、多くの宗教はこの本来の目的への真摯な努力を放棄し、財産を蓄えながら、かえって宗教的権威のもとに民衆を奴隷化しようとする傾向がある。この本末転倒を正し、真の『民衆のための宗教』 の時代を築きゆく『宗教革命』が、七百年前、日蓮大聖人が敢然と始められた『広宣流布』の戦いである。ここに創価学会の使命がある

 

祈りは具体的であってこそ叶う

「祈る」とは、どういうことをいうのでしょうか。「祈り」とは祈願の意味です。池田先生は、「『祈りは具体的でなければならない』ーきちっと一念を定めて、具体的に祈念していく。それでこそ、祈りは御本尊に感応し、『事の一念三千』の法理に則って、宇宙のあらゆる次元の働きが、祈りの実現へと回転はじめる。妙法を信じ、行ずるものの祈りは絶対に叶う。それも、祈る側の『強き一念』があってこそである。強き一念は、目指す的が明確であり、具体的であってこそ生まれる」と話されています。

「こうなればいいな」「こうならないかな」という弱い一念で唱題しても、「祈り」にはなりません。「何とかしてください」という、抽象的、観念的な「祈り」も、本当の祈りとはいえません。「何を、いつまでに、どうするのか」、を明確な決意と、具体的な目標を立てて、題目をあげてこそ、強い一念で「祈っている」といえるのです。

 

信心の実践でも、「いつまでに」「何を、どうするのか」と『行き先』と『予定』を決めて、『行動する』ー祈って動いてこそ、『目的地に到着』ー決めたとおりの「結果と功徳」が出るのです。

なお、「何を、どうするか」という内容は、まず、自分自身が「変わる」目標ー解決すべきこと、宿命転換すべきこと、変革すべきこと、実現したいことなどーを立てることが大切であり、そのうえで、自身が変わるための「活動」の目標を立てることです。

 

信心していながら、「困った、どうしよう」と方法論ばかり考えていたのでは、カラ囘りして、行き詰まるだけでしょう。それは、「悩んでいる」のではなく、「迷っている」ことになるからです。信心で解決しようと決めて、実践することが信心で「悩む」ことなのです。いったん、方法論をすべて捨てて祈ったときに、道が開けるのです。

 

小さいときには親に教えられた通りに勤行していても、大きくなるとやらなくなることがあるものです。親が勤行することを押しつけると、親に対する反発から、信心きらいになってしまいます。本人の決意がなければ、義務であり、惰性になり、正しい信心にはならないので結果が出ず、信心が重荷で苦しくなって、よけい信心がいやになってしまうのです。

 

日蓮大聖人の仏法は、人間を限りなく前進させる法であり、無限に向上させてくれる源泉なのです。したがって、この仏法を持った以上は、たゆむ心を起こして、立ち止まってはならないし、成長をやめてはならないのです。それでは、退転になるからです。池田先生は、「ある意味で『惰性』とは、流れに身を任せ、成長の止まった姿である。それでは、やがて敗北であり、苦しみの人生となってしまう。また、自身を良き方向へと変化させていけないものが滅びていくのは、自然の法則である」と話されています。

 

「発心下種」「入信決意」というように、「決意」から入るのが「信心」であり、形や行動から入ったら「惰性」になるのです。

 

一日の勝負は朝の祈りで決まる

朝の勤行の時に、「今日一日、こうしよう」「こういう結果を出そう」と、仕事や活動のうえでの具体的な目標を立てて祈り、行動した時には、決めたとおりの結果が出るでしょう。何も祈らなければ、一日、カラ回りになってしまいます。ですから、一日の勝負は「朝の祈りで決まる」といえます。池田先生は、「一日一日の充実には、朝の出発こそ肝要である、朝の勝利は、一日の勝利となり、やがて人生の大勝利へと結実していく。そのためにも朝の勤行が大事である。朝の勤行は『生命の目覚め』であり、胸中に赫赫たる太陽を昇らせゆく源泉であり、この生命の大いなる『覚醒の座』から出発していくならば、その日一日、新鮮な朝の息吹をたたえ、確実な充実と成長の『一歩』を刻みゆくことができる。まさしく勤行は、荘厳なる『元初の朝』の儀式である」と話されています。日々、新たな決意で、具体的な祈りをこめて、毎朝の勤行を行っていきたいものです。

 

大聖人は、「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからずー日蓮の弟子たちは、臆病であってはならない」(教行証御書、一二八二ページ)と仰せです。信心とは勇気です。困難なときほど、勇気を発揮して挑戦していけるのが、大聖人の仏法を信ずる者の強さです。

 

評論家ではなく改革者・実践者に

組織や活動などに課題がある場合には、「自分が良くしよう」と決めて祈ることです。そのうえで、自分のできる範囲から、良くするための努力をしていくべきでしょう。良くしよう、と願って行動する人がふえれば、どんな問題でも解決の方向へ方向へ向かっていくものです。信心は、常に「一人立て」です。広布のために一人立って行動した人は、苦労は大きくても、一番、功徳を受け、成長できるのです。

 

信心していても、命の中に刻みこまれている「過去の宿業」が出てきて、大きな悩みが起こることがあるのです。信心するということは、「悩みがなくなる」ことではなく、「どんな悩みにも負けなくなる」ことであり「悩みを功徳に変えていける」ことなのです。ですから信心して悩みが起きたときは、「宿命転換のチャンス」であり、「二度と同じことでは悩まなくてすむチャンス」であり、「功徳を受けるチャンス」であり、「大きな体験を積むチャンス」であり、「実証を示すチャンス」なのです。そうしていこうと決めて、信心に励めば、そうなっていくのです。つまり、信心が強ければ、「ピンチがチャンス」になるのです。

 

マイナスをプラスに変えて

「悩み」や「苦悩」は「マイナス」の状態といえます。信心による「変毒為薬の功徳」とは、マイナスを「ゼロにする」のではなく、「プラスにする」ことなのです。例えば、重い病気になっても、信心を根本に治したときには、病気が治るだけではなく、前よりも丈夫になっていくのです。また、同じことでは二度と悩まなくていいようになるのです。池田先生は、「世間においてさえ、ピンチをチャンスに転じる行動が強調される。まして皆さま方は、大法をたもった仏子である。ゆえに、いかなる苦難も、悠然と、また見事に勝利へと転じて、信心の『一念』の無量の力を証明しゆく『心の戦士』『心の英雄』であっていただきたい」と話されています。信心の一念が強ければ、「ピンチがチャンス」になり、「苦難が勝利へ」と転じていくのです。また、常にそうしていくことが、信心の実証といえます。

 

過去にとらわれるのは後ろ向きで愚か

過去にやった行為を反省しても、たいていは、また同じようなことをやるものです。なぜなら、生命の傾向性や性分が変わらなければ、同じような行為を繰り返してしまうものだからです。例えば、短気を出して失敗した人が、その行為を反省して、しばらくは短気を起こさないようにいましめていても、なにかあったら、やはり生来の短気を出してしまい、失敗を繰り返すようなものです。過去の行為を反省するのではなく、自分自身の生命の傾向性ーその本質は宿業ーを見つめて、それを変えようと決意して信心することが大切でしょう。それが、宿命転換であり、人間革命をめざすことなのです。ただし、「人間革命をさせてください」と観念的に祈るのではなく、現在の悩みや課題を解決するために祈り、広布のための実践に励む中で、人間革命がなされていくのです。

 

悩んでいる時が宿命転換の時

池田先生は、「信心していても、病気で悩む人もいる。商売や仕事で苦しむ人もいる。折伏や広布の活動に苦労する人もいる。いろんな苦しみ、悩みの姿がある。しかし、その時こそ、宿業を転換し、功徳を開いていく、一番よいときなのである」と話されています。「悩んでいる時こそ、宿命を転換し、大功徳を受けるチャンスなのだ」と、深く確信して、実践してくことが信心なのです。悩んでいる人には、そのことを教え、決意して信心で立ち上がらせてあげることです。「勇気ある信心の人」には、絶対に「行き詰まりはない」のです。

 

妙法に南無して無量の智恵と力を

さまざまな問題にぶつかったときには、どのような「作戦」や「方法」をとるよりも「法華経の兵法」すなわち、信心を根本にした智慧と力と福運によって勝利していきなさい、と大聖人は教えられているのです。

前にも紹介しましたが、池田先生は、「祈り、努力し、『御本尊におまかせする』大確信が大切である。心から妙法に南無した時、無量の智慧と力が出る。不可能も可能になっていく。あくまでも、祈りが根本である。祈ることを忘れて、方法論に走った場合には、空転し、行き詰まる」と話されています。困難な問題や、解決できないような悩みにぶつかった時には、「負けないで乗り越えよう」「絶対に解決しよう」と決めて、御本尊に真剣に祈ることです。いったん、すべての方法論を捨てて、一念を定めて祈ることが、信心で「悩む」ことなのです。

 

最大の工夫と努力で社会に実証を

「信心さえしていれば、仕事や商売がうまくいくだろう」と考えるのは誤りです。信心をしているからこそ、最大の工夫と努力を重ねて、「実証」を示していくべきなのです。そのためには、仕事や商売のうえでの具体的な目標を立てて祈り、挑戦することです。会社に勤めている人は、努力をして成績をあげても、儲かるのは会社です。しかし、自分で決めて祈って努力し、結果を出した場合は、「力」と「信用」がつき、「福運」が残って、自分の財産となるはずです。ですから、自分の成長のためと、信心の実証を示すために、自分で目標を立てて挑戦すべきなのです。仕事が、義務でありノルマと思えた場合には、重荷になり、苦しくなるだけでしょう。信心を根本に、職場を、自分自身を磨き、成長する場としていくべきなのです。

 

生命が弱ければすべてに負ける

結局、自分自身の生命が弱いから、環境に負け、悩みに負け、宿命に負け、人間関係に負け、すべての問題に負けてしまうのです。生命が強ければ、どんな悩みにも負けずに乗り越えていけるはずです。生命を根本から強くするのが、大聖人の仏法でああり、正しい信心なのです。悩みにぶつかったときは、まさに、生命を強くするチャンスー宿命転換・人間革命のチャンスーだと決めて、信心で挑戦していくべきなのです。

池田先生は、「世間の人びとの常識では、とうてい不可能と思い込んでいることを可能にする力が、御本尊にはあるのです。ただあきらめて、不可能と思っている人は、妙法の力を知らない人たちです、すべてを可能にする人は、その妙法の力を引き出すことのできる人です。まず、強盛な祈りによって、不可能を可能にする実践が、勇んで出てこなければなりません」と話されています。

 

法華経の兵法」ー強き信心こそ、すべてに勝利する源泉であることを忘れずに、社会の中で功徳の実証をしながら、広宣流布を進めていきましょう。

 

池田先生は、「仏法にあって、『教』や『行』(実践)に誤りがあるから難にあうのではない。正法を信じ、真剣に、正しく行じているからこそ、難にあうのである。ゆえに、妙法を奉ずる私どもにとっては、まさに『難こそ誉れ』である。『難こそ正義の証』であり、『難こそ大聖人門下の証明』なのである」と話されています。創価学会がマスコミなどで批判されたりすると、恥ずかしいことでも起きたように、ひるんだり、臆したりする人がいますが、それでは、日蓮大聖人の門下であることを放棄し、法を下げることにも通じます。そういう時こそ、私たちは、毅然と胸を張り、誇り高く、勇んで前進していくべきなのです。

 

病気は治るかどうかより治すかどうか

池田先生は、「体の具合が悪くなったら、すぐ医者に相談するなり、よく診断してもらうことである。病気を治療する専門家が『医者』である。『信心』は福運をつけ、病気と闘う根本の生命力を引き出すのである。そして、医者も、薬も、友人の励ましも、すべてを『諸天善神』としていけるように、強く、賢く、生きていただきたい」と話されています。また、「信心があってこそ、医学をもっとも効果的に使っていけるのである」とも言われています。

 

ある医師は、「『病気が治ればいいのにな』という、決意の弱い人は、なかなか治りにくい。『必ず治してみせるぞ』との強い決意のある人は、回復も早い」と話しています。信心していても、同じことがいえるでしょう。また、多くの医師に、「病気を治すのは何だと思うか」というアンケート調査をした結果、「患者の生命力」と答えた人が「七十八パーセント」だったというデータがあります。根本は本人の「生命力の強弱」が、病気が治るかどうかを左右しているのです。強い生命力を引き出すものが、強い信心であり、祈りなのです。

 

アメリカの良心」と呼ばれた、故ノーマン・カズンズ博士が、五十歳で膠原病、六十五歳で心筋梗塞と、二度も「回復不可能」と宣告されながら、「絶対に治すぞ」という強い信念の力で、見事に回復して、七十五歳まで寿命を延ばした話は有名です。博士はー強い人間には、「神経系」や「免疫系」「循環系」などの他に、「治癒系」(病気と闘う時、身体の総力を動員する機能)と「信念系」(精神の働き)の二つの重要なシステムがあるーと主張しています。「信念系」におけるー希望、生への意欲、安心感、愛情、使命感、楽観ーなどの肯定的な精神活動が、「治癒系」を活性化して、「人体という薬局」を活発に働かせるので、病気は治癒に向かう、というのです。博士は「希望こそ、私の秘密兵器」と話していました。私たちにとっては、「広布のために健康になろう」と決めて祈ることが、カズンズ博士のいう「信念系」の働きを強くして、「治癒系」の働きを総動員するので、病魔を打ち破り、健康を回復する力になる、といえるでしょう。

根本として頼るのは「御本尊のみ」であることを忘れてはならないでしょう。

 

病気を機に信心を深め宿命転換を

池田先生は、「凡夫の常として、健康なときよりも、病気を機に発心して、信心が強盛になり、もっと本源的に宿命を転換していく場合が多い。そうであれば、病気になったとしても、いたずらに悲観することもなければ、まして御本尊を疑うことなど、考え違いと言わざるを得ない。病魔が縁となって、信心が強盛となり、やがて健康になっていくならば、その病気は、『一生成仏』『人間革命』につながるエンジンにたとえることもできよう」と話されています。

 

健康のための日ごろの努力が大切

池田先生は、「人生を健康で生き抜いていくため」の四つのモットーとしてー①張りのある勤行、②無理と無駄のない生活、③献身の行動、④教養ある食生活ーを提案されています。また、具体的な「健康の四原則」とし、第一に「よく眠ること」、第二に「よく歩くこと」、第三に「怒らないこと」、第四に「食べ過ぎないこと」が大切な基本である、と指導されています。こうした具体的な指針を、実践していくことが大切です。