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kaidaten's blog~書評ノート~

日経新聞関連の時事ネタを中心に書評ノートを公開中。小説や実用書、自己啓発本についてもたまにエントリー。

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職業は武装解除

その他

書評

 

武装解除」。とても強烈でインパクトのある言葉だと思う。

 

本のタイトルでもあるこの言葉は、”紛争が終わったあと、兵士たちから武器を回収して、これからは一般市民として生活していけるように職業訓練などを施し、社会復帰させる仕事”のことを指す。

 

そして、この分野の第一人者であり、認定NPO法人日本紛争予防センター(JCCP)事務局長を務め、世界中の数々の「武装解除」プロジェクトに関わってきたのが、この本の著者「瀬谷ルミ子」さんだ。本の表紙に写された温和な表情を浮かべる一人の女性が、そんな危険なプロジェクトを背負って立つ日本のパイオニア的存在であるなんて、なかなか最初はイメージがつかなかった。

 

正直に申し上げると、国連NPO法人の仕事にはこれまで全くといって興味がなかった。もちろん、自分の身を危険にさらしてまで、紛争地帯の弱者のために活動する人には尊敬の念を抱く。だからといって、それが私の興味の対象に繋がることはこれまで一度たりともなかった。NPONGOの違いも分からなかったし、違い以前に具体的な活動内容もよく知らなかった。

 

自分のことだけで精一杯で、もがき苦しみ、身近な人に対する感謝や配慮さえ忘れていた私にとって、地球上のどこか遠いところで起こっている紛争のことに興味を抱けと言うほうが到底無理な話だったのかもしれない。


私は普段、それなりに本を読むほうだと思う。小説、実用書、自己啓発本、それなりに読む。しかしながら、いきつけの本屋のオススメコーナーに、もしこの手のタイトルの本があったとして、私が自主的にそれを手に取って中身を確認し、レジまで行って購入する確率はほぼ0%と言ってもよい。それほどまでに、私にとってこれまで興味のなかった分野の話なのだ。

 

この本は他人に薦められるかたちで読むことになった。
本を読むこと自体は嫌いではないので、
「普段全く読まない本だからこそ、もしかしたら何か得られるかもしれない」
という気持ちでこの本を読み始めた。


私には常々疑問に思っていたことがある。
国連NPONGOで働く人達は”何”をきっかけにその仕事に就くようになり、
”何”をモチベーションとしてあのような危険で過酷な仕事に従事し続けるのだろうか。

 

先ほど、私はこの手の話に興味がないと書いたが、それは私に限ったことではないと思う。世の中のほとんどの人たちが「私と同じ側」だと思う。だからこそ、マイノリティにあたる瀬谷さんのような人の考え方を”きちんと理解する”ということを読書のテーマとした。

 

瀬谷さんが、紛争地帯での支援活動を志すきっかけになった出来事は、本書の冒頭十数ページあたりに記載されている。それはある一枚の写真との出会い。伝染病にかかり瀕死の状態の母親を、必死に起こそうとしているこどもを写した写真だ。
その写真を見た瞬間、瀬谷さんの頭の中に「なぜ?」という言葉が浮かんだそうだ。
レンズの先の世界と自分の暮らしている世界とのあまりにも大きなギャップに、率直に
「なぜ?」という言葉が出たと書かれている。
そして、彼女の中に芽生えた「なぜ?」という疑問が、彼女自身を世界中の紛争地帯に赴かせることになる。それ以降は、彼女がJCCPの事務局長として武装解除に携わるまでの細かい経緯や各紛争地でのプロジェクト内容、そして彼女の想うところについて書かれている。

 

この本の中で紹介されているいくつかの紛争のうち、特に印象に残っているものがある。ルワンダで起こった民族間紛争だ。


ツチ族」と「フツ族」という異なる民族の紛争地帯と化したルワンダ
その地域では私の想像を超えるとんでもない殺戮が行われていた。

 

「妻を殺さなければ子どもを殺す」
「友人の手をナタで切断しなければお前を殺す」

 

そんな究極の選択を迫られた人たちによる親族も巻き込んだ殺し合い、まさに地獄絵図のような状態が、かつてのルワンダに確かにあったのだ。
子どもたちも、幼い頃から兵士として洗脳され育てられ、心ない大人たちに散々利用されてきた。


日本では夏になると、戦争関連のドキュメンタリーや映画がメディア上で取り上げられる。以前、日本の特攻兵の話を聞いて、信じられないという気持ちと同時に心を痛めたことがある。そういうものを比較の対象にしてはいけないことは十分に承知しているが、あえて正気な気持ちを書くと、ルワンダで起きた紛争はそれを凌駕する惨劇だと私は感じてしまった。

瀬谷さんは、NGO職員の一員としてその地域で現地の人々の職業訓練に従事することになる。こんなめちゃくちゃな状態の国の、とある小学校に瀬谷さんがイスと机を寄付する場面がある。
「これ以上ないくらい村人から感謝され、子どもたちは嬉しそうにぎゅうぎゅう詰めに座って授業を受けていた。」という表記があった。

絶望的な状態の人たちを、自分達の活動で笑顔にできる、そこにモチベーションがあることをこの時点で理解した。多かれ少なかれ皆さんそのような経験を通じてやりがいを持って今の仕事に従事しているのだろう。


本の中での瀬谷さん達は常に本気である。
事務所のすぐ横にテロ組織からの爆弾が落とされるような危険地帯で活動するからこそ
明確で硬い信念を持っている。
「一度の大量支援ではなく、相手が自立できるまでの節目節目に必要な協力をすること」その姿勢を絶対に崩さずに活動されている。それがその地域の未来のために最も適切な援助だと分かっているからだ。

 

貧しい国での援助活動というものは本当に難しい部分がある。
昔、日本のあるTV番組で発展途上国の村に井戸を作るというプロジェクトが実施された。完成後の井戸に住民は大変喜び、ハッピーエンドで終わったかのように見えた。しかしその後、その井戸を巡ってその地域周辺では戦争が発生し、結局多くの死傷者を出してしまったという。

 

「自立のための支援」。本当に重要なキーワードだと思う。


この本を読んで今後の私自身の生き方に繋げられる部分を探してみた。
最近の私は、病気をきっかけに以前と少し変わったところがある。
冒頭で「身近な人に対する感謝や配慮さえ忘れていた」と述べているが
「他人のために活動することの喜び」を最近知った。
自分だけでなく他人のことを慮って行動する機会が増えた。人に優しくなった。
この変化は自分にとって本当によいものだと思う。
だからこそ、他人のために何かをしてあげるとき、安易に労働力や答えを提供するのではなく、「自立のための支援」を思い出し、相手にとって最適な協力ができればよいと思う。

 

今回は普段読むことのないジャンルの本を読んでみたが、なかなか考えさせられた。
これからは、文学雑誌などが定期的に発表する推薦図書をたまに読んでみようかなと思ったりもした。

ほんの少しだが、私の中にまた新たな変化が生まれた。

 

 

 

内容抜粋

私は三十四歳、職業は武装解除です。


一九九四年の四月。新聞をめくっていた私の目に、ある写真が飛び込んできた。アフリカの小国ルワンダで発生した大虐殺、その難民キャンプの親子の写真だった。コレラで死にかけている母親を、泣きながら起こそうとしている三歳くらいのこどもの姿に強い衝撃を受けた。私と彼女たしの間にあるのは、カメラのレンズひとつ。その母親はひどく衰弱していた。傍らで泣き叫ぶわが子を抱き寄せることもできない。もう長くはないだろう。高校三年生の私は、お菓子を食べながら、死にゆく彼女を眺めていた。この瞬間、私のなかで、たくさんの「なぜ?」という思いが溢れ出てきた。お茶の間でお菓子を食べながら、紛争地の現場を眺める私という構図。死に行く人々は、レンズの向こう側で、数十億の人々が眺めていることすら知らずに、息絶えていく。なぜ?

 

日々のニュースを眺めて、嘆きながら救世主が現れるのを待つのではなく、
自分が状況を帰る側になるということ。その写真は、私と世界がつながる窓となり、
カメラの向こう側の紛争地を変えるために自分が動きだすきっかけの一枚になった。

やっぱりそれほど専門家がいない新しい分野に違いない、とプラス思考に切り替えることにした。

「紛争地では、元兵士やこども兵士をいかに社会に戻すかが問題となっている」
これだ!と声を出していた。無条件にピンと来たとしてか言いようがない。(中略)
これが、後に私の専門となるDDR―兵士の武装解除(Disarmament)、動員解除(Demobilization)、社会復帰(Reintegration)―のことを知った瞬間だった。

 

ルワンダ
村人が有志で建てた小学校があった。村人から集めたお金で教室一つ分は完成したが、机や椅子も買えず、子どもたちは地べたに座って授業を受けていた。認可されていない私立学校の扱いとなるため国から補助は出ず、子どもの親は稼ぎが少なく先生の給料を払えないため、ほぼ無給で教えている状態。日本からの寄付で、まず机と椅子を寄贈した。これ以上ないくらい村人から感謝され、子どもたちは嬉しそうにぎゅうぎゅう詰めに座って授業を受けていた。

 

ある囚人は、私に訴えた。
「俺は無実なんだ。でも誰も話を聞こうともしない」
別の囚人は、自分は加害者であると同時に、被害者でもあると話した。
目の前にいるツチ族を殺さなければお前を殺すと、銃を頭につきつけられて脅されたため、友人をナタで切りつけるしかなかったのだ、と。妻を殺さなければ、子どもを殺すと迫られたものもいた。自分と友人、自分と家族、家族と家族、その生命を天秤に掛けざるをえない極限の状況。

 

アフガニスタン
「あなた、DDRの部署の人でしょう?
俺たち、元兵士で、職業訓練を受けたけどその後の生活が苦しくて困ってるんだ。何とかしてくれるでしょう?」満面の笑みを浮かべながらそう言う彼らを見て、違和感の原因が分かった。(中略)一部の元兵士たちは、自分たちが困っていると訴えさえすれば誰かが支援をしてくれると感じ、自分たちの存在には価値があるという若干の誇らしさも感じるようになっていたのだ。(中略)
「無罪になって恩恵がもらえるなら、加害者になったほうが特だ」という価値観が社会に根付いてしまう。手厚い支援を受ける元子ども兵が新便の征服と文房具を持って学校に通う一方で、一般の貧しい子どもたちは鉛筆ひとつ買えないような状況があった。それを見て育った子どもたちは、将来、争いの芽が再び生じたとき、果たして加害者側に回らず踏みとどまることができるだろうか。


他に誰もいない静かな執務室で、カルザイ大統領は、
「ファヒーム国防大臣を、副大統領と国防大臣から外すべきか意見を聞きたい」と切り出した。恐らく、一国の副大統領や国防大臣の去就について、日本が意見を求められたのは、後にも先にもこれが初めてではないだろうか。日本が、確実に一国の政治プロセスに組み込まれていた瞬間だったと思う。日本側は、「アフガニスタン政府の問題だから外国の人間が意見すべきではないが、武装解除を進めるためには、彼が障害になっているのは事実だ」との意見を伝えた。そして、カルザイ大統領は、国防大臣を交代させることを決定した。

 

アフガニスタンの人々の日本への高感度は高い。
第二次代戦中に欧米から攻撃を受けて高配した歴史に自分たちを重ね、
政治的な思惑なくアフガニスタンへの支援を行う姿勢に純粋に感謝する人々も多かった。

 

日本が、国際的な貢献の場で、一定の立場を保ちながら、果たせる役割とは、一体何なのだろうか。それを見つけるために、何をすべきなのだろうか。代替案のない批判は、ただの愚痴だ。そう日々自分に言い聞かせていた私は、これらの課題に対して、解決策を提示することができない自分の力不足を実感した。

 

■外務省、国連NGOなどの違い

あまり一般化したくはないのだが、あくまで私の経験に照らして、
それでも多少はある外務省、国連NGOなどのそれぞれの役割の違いを簡単にまとめてみたいと思う。
まず政府関係機関、つまり外務省などは、ある特定の国や地域、課題に政策レベルで深く関わることができる。
また、部署によっては担当官の一人の最良が大きいので、自分が望んで動けば大きな責任を持った仕事ができる。
(中略)また、国連NGOの活動資金の一定額は政府からの援助で成り立っているため
政府内部にいる自分が尽力すれば、さまざま機関に対して現実的な提案や連携もしやすくなる。(中略)
次に国連の場合。国連は、世界中からスタッフが集まるので国際色も豊かだし、その中でいろいろと学ぶことも多かった。
また、プロジェクト予算は、数億、数十億、ごくまれに数百億円の規模になるため、
大規模なプロジェクトに関わることができるという魅力もある。、また、国連機関によっては、食糧、難民、子どもなど、専門性に特化した活動を直接実施することもできる。それぞれの分野にスペシャリストが集まるので、専門性を磨くことにも適している。一方で、国連は自ら事業を行うのではなく、おの事業の多くをNGOに委託するため、現地レベルの取組みを自分が直接行うことができないことも多い。組織の担当分野を超えた行動がなかなかできないジレンマもある。(中略)
最後に、NGO。日本のNGOは、例外はあるものの、数十億単位の大規模なプロジェクトを実施することは、ほとんどない。ただし、NGOは、政府単独では実施できない社会的な役割を担っており、現地住民との折衝、企画立案、実行から評価まで直接関わることができる。(中略)また、NGOは、組織の活動目的をどう設定するかによって、政策レベルの提言を行うアボドカシー事業を行うこともできるし、
シンクタンクのように調査に特化することもできる。志と手段とスキルさえ確立すれば、専門性に特化したどんな活動でも実現できるのだ。私が、NGOに可能性を見出したのも、この理由が一番大きい。

 

■ケニア
私たちは、基本的に住民たちをあまり被害者扱いしない。
一時の過剰な善意が、ときに「援助慣れ」を生み、人々の立ち上がる力まで奪ってしまう現場を、過去にいくつも見てきたからだ。
私たちができるのは、彼らが自力で歩き出せるようサポートすることだ。
無理をして一度に大量の支援をしてそれっきりになるよりも、じぶんたちができる範囲で、相手が自立できるまでの節目節目に必要な協力をすることが必要だと思う。
だから、その日に感謝されることよりも、数年後に振り返ったときに、
「あのときは難しいことを言う人たちだと思ったけど、あれでよかった」と思ってもらうことを目標にしている。私たちはあくまで、コミュニティの問題を自ら解決できるようなチャンスとスキルを提供するだけだという姿勢を貫いた。

 

■南スーダン
一方、職業訓練では、ホテルの客室係と、レストランの調理補助の二種類の職業訓練を行っている。この二つを選んだ理由は、これから五年から十年は、就職先に困らない職種だからだ。ここ数年の南スーダンは、経済発展が急速に進んでおり、ホテルの建設ラッシュが進んでいる。しかし、訓練された人員が確保できずに悩んでいるホテルが多かった。

 

ストリートチルドレンを守るために提供を開始したシェルターの第一弾は、JCCPのロゴや広報資料のデザインを無償提供してくれているユイット株式会社の寄付によって設置することができた。南スーダンでは一般的な藁葺き屋根の小屋なのだが、夜間警察に怯えて熟睡できず、職業訓練にも集中できなかったストリートチルドレン八人は、入居するときにうれしさのあまり涙を懸命にこらえていた。
彼らが入居したことを知ったユイット関係者も涙を流して喜んでいたと伝えたところ、彼らはまた涙ぐんでいたという。
(中略)身寄りのない彼らには、彼らのことを思い、支えてくれる大人が、今までいなかったのだ。
初めて、自分たちのことを気にかけてくれる大人の存在を感じ、涙したのだろう。
世界の裏側であっても、ひとりでも自分たちのことを思って行動してくれる人がいるという事実。それがどれだけ彼らの希望になったのか、私には計り知れない。

 

私が一番うれしくなるのは、現地の人たちが自らの手で進めていけるようになり、私たちがもう必要なくなった瞬間だ。いつか、JCCPのような組織の役割が終わる日が来れば、というのが心からの願いだ。


■私たちに残された選択肢
平和な日本で生まれ育った自分が、世界のどこかで起こっている戦争や、そこに生きる人たちのことを考える必要があるのだろうか?と感じる人はきっと多いと思う。
だが、私は二つの意味で、扮装について意識することは日本人にとって重要なことだと思っている。
ひとつは近年の紛争のかたちが変わってきていて、テロのように、拠点を持たないネットワーク型の紛争が増えてきているからだ。今までのような「危険な地域に行くと危ない」から「脅威が国境を越えて向こうからやってくる」形に変わってきたのだ。
(中略)二つ目の理由は、日本のもつ中立性と大戦後の復興の経験が、世界各地の紛争地に大きな影響を与えているという事実があるからだ。
「日本は、昔の戦争で、アメリカやヨーロッパに総攻撃を受けて、原爆まで落とされて、ボロボロになったんだろう?なのに、今は世界有数の経済大国で、この国にも日本車が溢れているし、高級な電化製品はすべて日本製だ。どうしたら、そうやって復興できるのか、教えてくれないか?」私が今までに行った多くの紛争地で言われたセリフだ。アフガニスタンでは、日本人が言うからと、信頼して兵士たちは武器を差し出した。ソマリアでは、アフリカで植民地支配をしたことがなく、支援を行う際にも政治的な思惑をつきつけない日本は、中立的な印象を持たれている。