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kaidaten's blog~書評ノート~

日経新聞関連の時事ネタを中心に書評ノートを公開中。小説や実用書、自己啓発本についてもたまにエントリー。

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本田宗一郎 夢を力に

実用書・自己啓発

書評

世界のホンダの創業者「本田宗一郎」の自伝とも云える一冊。


戦後の日本経済を牽引した松下電器の「松下幸之助」、京セラの「稲盛和夫」らと肩を並べる、日本の著名な経営者の一人である「本田宗一郎」。


本書は、そんな本田宗一郎の生涯を描き、私の履歴書に寄稿した本田自身の言葉や、激動の時代をともに闘った社員たちの話を紹介することで、本田の人となりについてまとめている。また同時に、ホンダの世界躍進の影武者であり、”本田と藤澤の最強コンビ”とまで言われた「藤澤専務」にも焦点を当て、この二人の関係性をもとに理想の経営者像について言及している。

 

本書を読み終えてまず感じたことは、本田宗一郎松下幸之助の共通点の多さだ。二人とも戦前の一般家庭に育ち、丁稚奉公から下積みを重ね、自分の専門分野で世界的な大企業を一代で築いている。自分の仕事と社員をこよなく愛し、目先の利益に囚われない先見性を持ち、事業を通じて日本社会に貢献しようと本気で考え行動した。常に”製品の先の人たち”のことを想像し、事業に取り組んだ。明るく社交的で交友関係も広く、多くの人に愛された。

 

一流の経営者は一流の人格者である。私は、彼らのような真っ直ぐな姿勢を羨ましく思う。どんな苦境も跳ね除ける精神力と、社員を牽引するリーダーシップは、技術に対する真っ直ぐな愛と、事業を通じて社会を良くしたいという真っ直ぐな情熱から来るものだと思う。

 

松下幸之助」の著書は、既に何冊か読んだことがあったが、「本田宗一郎」に関しては本書が初めて。本書を読み進める中で、大事を成し遂げる人物がいかなる素養を持っているかという点を再確認でき、私は大変嬉しく思う。

 

そして、本田と最強のタッグを組んだ「藤澤専務」の生き方にも感動した。本書の中で、「本田と藤澤のどちらが欠けても今のホンダの繁栄は在り得なかった」と本田自身も含め、皆が口を揃えて証言している。”技術”の天才「本田」と”商売”の天才「藤澤」の絶妙な関係性があってこそ、町の小さな二輪車屋は世界のホンダに成長することができた。それにも関わらず、ホンダのもう一人の創業者「藤澤武夫」の知名度はそれほど高くない。それは彼がホンダの影武者に徹したからである。彼自身が告白していることだ。本田と全く異なる性格を持つ藤澤専務、この人物に関するエピソードにも私は強い感銘を受けた。

 

本書は、本田と藤澤という二人の偉人の素晴らしい考え方・エピソードを知ることができた良書であったが、あえて印象に残っている点を挙げるとすれば、やはり「本田の幕引きの場面」だろう。社内の絶対的な技術者として君臨した本田にもやがて限界がやってくる。それを本田に諭す藤澤専務の計らいと、後世に快く技術の舵取りをゆずる本田の姿は、とても美しいものだ。当時、世の中の多くの企業が世襲制を採用していた中で、彼らが取った行動は実に稀有であり、尊敬に値する。

 

本田宗一郎は、他人の真似をすることを一番嫌った。とことん自分を貫き、ホンダ独自の製品を世に生み出し、独自の組織を作り上げた。他人のコピーばかりして、いくら結果を残しても、それは本当の意味での成功ではい。私も人を模倣し続けるだけでなく、自分ならではの「これは!」というものを確立し、自分の信念に沿って生きていきたい。

 

 

 

内容抜粋

■初めての自動車修理

これが私が初めて自動車修理をしたときで、そのときの感激は一生忘れることができない。それからというものは、多少は主人に認められはじめ、いやな子守りは少なくなって、修理工としての仕事を多くするようになった。あとで考えると、やはりあのとき子守りで半年間がんばったことがよかったのだと思う。あのときの苦労と喜びを思い出せば、どんな苦しさでもけし飛んでしまう。長い目で見れば人生にはムダがない。

本田宗一郎という人物

本田の二代目社長河島喜好は言う。「よくまあ、そんなことまで知ってるなぁとビックリするくらい、クルマのエンジニアリングの知識は広くて深かった。メカニズムには精通していました。アート商会の師弟時代、アート商会浜松支店での経営者時代に、おやじさんは、それこそ現場・現物・現実で、それらを学んだんでしょうね。知識だけじゃなく、溶接から鋳造から、何から何まで名人級です。紙の上の学問しか知らなかった僕らじゃ、とても歯が立たなかった」

■既存概念に囚われない本田イズムの片鱗

当時はトラックも乗用車も全部車輪のスポークは木製だった。私はそれに目をつけ、鋳物製のスポークを考え特許をとり博覧会へ出したが、この鋳造スポークが非常な好評を呼び、インドまでへも輸出されるほどになった。

■本田の先見性

二十八歳のとき、私は繁盛していた修理工場を閉鎖し、新しく東海精機株式会社をつくってピストンリングの製造をはじめた。順調にいっていた修理業をやめ、どうして商売替えしたかというと、自分の使っていた行員たちがボツボツ独立して店を持つようになったものの、自動車が急にふえるでなし、結局私の商売がたきとなって競争することになる。私はそれがいやだった。それに修理屋はやはり修理屋だけのことしかない。いくら修理がうまくても東京や米国から頼みに来るわけがない。そのうえ昭和十二年の支那事変以来物資の統制がきびしくなってきたので、材料が少なくてすむ事業に切り替える気になった。修理から製造への一歩前進を策したわけである。

■正念場の闘い

宮本専務といっしょに毎日、夜中の二時三時まで鋳物の研究に取り組んだ。髪はのび放題、妻を工場に呼んで長くのびたのを切らせながら仕事を続け、疲れてくると、酒を一杯ひっかけて炉ばたのござの上でゴロ寝するという日が続いた。私が一生のうちで最も精魂をつくし、世を日に継いで吟味し続けたのはこのころである。たくわえも底をつき、妻の物まで質屋に運んだ。ここで挫折したら皆が飢え死にすると頑張ったが、仕事はさっぱり進展しない。絶体絶命のピンチに追い込まれた。(中略)事業主としてこの間の生活は遊びどころではなく、非常に苦しい日々が続いた。だがピストンリングの製作に成功すればどうにかなるという前途に期待をかけ、みんな励まし合ってこの苦しさと戦った。

■能率を追究する本田理念の片鱗

こうして終戦までピストンリングの製造をやっていた。それも自動車だけでなく、海軍の船とか中島飛行機の部品まで造った。特に私が力を入れたのは、ピストンリングの生産方法を女の子にでもできるように自動式に改良したことで、この経験が戦後、オートバイの量産をはかるうえに非常に役立った。

■本田の一年間のお休み

トヨタに東海精機を売り渡して得た金は四十五万円。これを手元に次になんの仕事をしようかと考えたが、なかなか見当がつかない。こんな混乱の時にガタガタしてもしかたがない、一年間ようすを見ようと尺八など吹いて遊び暮らしていた。

■本田のパートナーに対する考え方

私は東海精機時代はもちろん、それ以前から自分と同じ性格の人間とは組まないという信念を持っていた。自分と同じなら二人は必要ない。自分一人でじゅうぶんだ。目的は一つでも、そこへたどりつく方法としては人それぞれの個性、異なった持ち味をいかしていくのがいい、だから自分と同じ性格の者とでなくいろいろな性格の人といっしょにやっていきたいという考えを一貫して持っている。

■奇跡のオートバイ”ドリーム号”の誕生

私と藤澤専務は私の運転する自動車(外車)で静岡県の三島口から河島君のオートバイの後を追ったが、早くてとても追いつけない。そのころ天下のけんの箱根を越せるオートバイは少なかったのにドリーム号はぐんぐん私たちの自動車を引き離し、すばらしいスピードで一気に峠の頂までつっ走った。しかもエンジンは全然過熱していない。やっと芦ノ湖の見える山頂で、すでに休んでいた河島君に追いついたわれわれは、そのすばらしさに感激しどしゃ降りの雨の中で涙を流して喜び合った。こと技術に関してはあおの有名なものぐさの藤澤専務までが自動車から降り、おりからの台風の中でズブぬれになってしばし動こうともしなかった。

■本田の理念

二十六年ごろ、輸出振興と合わせて輸入防止を政府に頼むため民間業者の会合があった。だが私はそれに参加しなかった。輸出を政府に頼み、そのうえさらに輸入防止まで依頼しようという安易な道を選ぶことに強い反発を感じたからである、これはわれわれがあくまで技術によって解決すべき問題である。日本の技術がすぐれて製品が良質であるなら、だれも外国品を輸入しようとは思わない。また黙っていても輸出は増加するはずだ。そのとき私は、”良品に国境なし”のことばを身をもって実現しようと決心した。技術を高め、世界一性能のいいエンジンを開発して輸入を防ぎ、輸出をはかろうというわけである。

■既成観念にとらわれることの恐ろしさ

既成観念にとらわれることほど人の考えを誤らせ、道をとざすものはない。

■海外で事業を展開するにあたって

ベルギーでどんなオートバイを作ったらいいか、その設計中にこんなことがあった。ベルギーはほこりが少ないから空気清浄器は不要だという結論が出たとき、私は即座に反発して変更させた。いったいベルギーに工場を建てるのはベルギーの金を日本に持ってくるためだろうか。そんなケチな了見ではベルギーの人たちにきらわれ海外企業は成功しない。現地に工場を建てたからにはまずその土地の人を富ます方法を考えねばならぬ。そうすればベルギーからオランダ、ルクセンブルクなどのベネルックス三国はじめEEC諸国にもどんどん輸出できるようになる。またベルギーはアフリカに非常な権益を持っており、アフリカへ輸出することも当然考えねばならぬ。とすれば日本よりほこりっぽいアフリカに適するもの、つまり空気清浄器は絶対に必要不可欠なのである。こういうところに単なる技術でなく、それを指導する思考が必要なのだ。

■九九%の失敗と一%の成功=本田

私はずいぶん無鉄砲な生き方をしてきたが、私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか一%にすぎないということも言っておきたい。九九%は失敗の連続であった。そしてその実を結んだ一%の成功が現在の私である。その失敗の陰に、迷惑をかけた人たちのことを、私は決して忘却しないだろう。

■社長としての限界

杉浦は「強力な創業者がいて、しかもその人が技術的にトップに立っている。加えて、過去にどえらい成功体験を持っている。そういうリーダーがいるということは、行く所まで行ってしまわないと、途中で止めるといおうことはとてもできない企業体質だった」と、当時の混乱ぶりを振り返る。

■本田の幕引き

研究所におもむき、本田のいる社長室の扉をたたいた。本田は西田を昼飯に誘った。西田は本田とソバをすすりながら雑談をし、ころ合いを見計らってポツッと本題を切り出した。
「研究員もどんどん育っているので、そろそろバトンタッチを考えていただけないでしょうか」
本田は即座に「よく言ってくれた」。
続けて「何なら今日にでも辞めていいぞ」
本田はハンカチで涙をぬぐっていた。
「本田さんは仕事一筋だから、専念されているときは何も見えなくなる。普段は人事を気にすることも全くないのに、あの時はひとこと言っただけで、すべてを理解して、むしろ喜んでくださった」と西田は感激する。

■藤澤専務の手腕

「反響はすごかった。五千軒くらいからすぐに返事があり、どんどん増えてゆく。委託販売が常識の二輪車業界に、前金を支払ってもらう商売をぶつけて、しかも、ぴたっと当てた。」と振り返る川島は藤澤を「度胸がよくて非常に緻密なばくち打ち」と評する。

■藤澤専務の茶室

「君、茶室をつくれよ。電話もおかず、外部といっさい遮断した生活をしなさい。自分の尊敬している方々が、昔、そうなされたことが三菱にとって大変効果があったんだよ」

藤澤は「私はお茶はできませんし、またやる気もないのです」と答えたが、本社からほどよい距離にある別室は、瞑想にふける格好の「茶室」になった。最初は会社に出ないでいるのが妙な具合だったが、会社という組織を一度突き放して眺めるうえでは大いに効果があったようだ。藤澤は後年、新築した東京・六本木の自宅に茶室を設けている。

■ホンダの哲学

ホンダの技術哲学はエンジンの高速回転の徹底的な追究と、独創的なデザインにある。速さと美とが二大要素である。

■本田と藤澤のコンビ

二人とも私利私欲に快淡で、公私混同は自ら厳しく戒めた。お金に潔癖で、遊ぶときには自腹で通した。五四年の経営危機のころに「お互いに息子を会社に入れるのはよそうや」と約束し、同族化を避けた。

■障害者に対する配慮

中村の案内で十度の身障者が懸命に作業する様子を見た本田は「どうしてだ。涙のやつが出てきてしょうがないよ」と感動した。そして、「よしやろう。ホンダもこういう仕事をしなきゃだめなんだ」と言い出し、さっそく、二輪車のスピードメーターなどの仕事を委託した。

■「一生懸命」について

当時(戦争)「一生懸命」が尊ばれたが、単なる一生懸命は何ら価値がない。否、誤った一生懸命は怠惰よりもかえって悪い。一生懸命には「正しい理論に基づく」ことが欠くことを得ない前提条件である。

■能率とは

すなわち能率は、現代において人間的な生活を営むための必須条件であって、この能率の要素として私は次の三つを挙げる。
一、タイム
二、マネー
三、プライド
である。
いかに時間に余裕があっても、金が無ければ生活を楽しむことはできず、またどのように金があっても、時間に余裕がなければ生活を楽しむことはできない。しからば、金と時間とがあれば生活を楽しむことができるかと言えばそうではない。時間と金だけが能率の条件であるならば、泥棒をしたり、詐欺をしても構わぬはずであるが、これは、人間としての誇りが許さない。正々堂々と正しい方法によって十分な収益をあげ、金と時間を作り、税金もなるべくたくさん納め、自分は事業を通して国家社会に貢献しているという誇りを得て、初めて能率的であると言えるのである。

■車のメーカーとしての責任

ここでみんなに言っておきたい。我われは交通機関を扱っているかぎり、責任というものを絶対に持ってもらいたい。責任の持てないような人は、すぐ辞めてもらいたい。もし責任の持てない人がいたら、ぼくは指名して辞めてもらうかもしれない。それはなぜかと言えば、交通機関というものは、人をあやめてしまうからだ。ものすごい人身事故を起こす、人の命を預かるものだから、それだけに責任を持つことを強く要求する。責任の持てない人は、文房具を売るとか、反物を売ればいい。きず物を売って、また替えてやればいい、我われはきず物を売ったら大変なことになってしまう。だから、あくまでも、この職業についたが最後、絶対に責任の所在を明らかにする。これだけははっきり君達に言っておく。

■世界的視野

社説の冒頭にある「世界的視野」とは、よその模倣をしないこと、ウソやごまかしのない気宇の壮大さを意味する。独創性を尊重し、取引き先、お客様、地域など、直接間接にかかわり合う社会全体を大切にする体質は、理解ある社外の人たちの支えがあり、みんなの努力が実って定着した。この基本理念は、設備や製品や、あらゆる制度となって実を結び、経営トップの交代ぐらいではゆるぎのない、ホンダマンシップとなって溶け込んでいる。

■より人間的であってほしい

私がここで強調したいことは、誰にでも好かれる立派な人で、「相手が君だから教えてやろう」という気持ちにさせるような人間になっていただきたいということです。(中略)より人間的であってほしいですね。

■本田の生涯

技術においても経営においても、創造力こそ力の源泉である。創造力は見果てぬ夢から生まれる。夢を捨て、失敗を恐れるときに人間の創造力はしぼむ。本田宗一郎の生涯をたどる時、改めてそのことを痛感する。