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kaidaten's blog~書評ノート~

日経新聞関連の時事ネタを中心に書評ノートを公開中。小説や実用書、自己啓発本についてもたまにエントリー。

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アフターダーク(村上春樹)

小説

書評

村上春樹の小説を初めて読んでみた。以前のエントリーで村上春樹と読者との対談集を取り上げた際、彼の作品に少し興味を持ったからだ。

 

kaidaten.hatenablog.com

 

 

 

記念すべき一冊目として選んだのが本書「アフターダーク」。選書の理由は、図書館の村上春樹コーナーにこの本があったから。一日で読むのに丁度良さそうなボリュームだったので手に取った。

 

アフターダーク=”日没後”。この物語は、”日没後”の都心の街か舞台。”浅井マリ”という女学生が主人公。彼女が都内のファミレスで長い夜を明かそうと、一人読書している描写から全てが始まる。やがて”高橋”という飄々としたバンドマンが登場し、浅井マリの長い一夜の幕が開ける。

 

この小説は場面設定が大きく三つ存在する。浅井マリと高橋の世界、ラブホテルで売春婦に暴力を振るった”白川”なるシステムエンジニアの世界、そしてマリの実姉”浅井エリ”の世界。この3つの世界の描写が切り替わりながら時系列で話が進んでいく。

 

最初は一見関係なさそうな場面が、物語を読み進めて行くうちに徐々に交わっていく。そんな作品だ。この小説は一度読んだだけではその全容を把握しきれない。結局何が伝えたかったのかいまいち分からない。しかしながら、注意深く登場人物の発言や情景の描写を追っていくと、隠されたメッセージの外観が見えてくる。例えば、鏡の存在。この物語の中では、鏡はその人の残像を写す。残像はその人の心中を表現する。よく観察することでいろいろなことが見えてくる。

 

物語の中盤で、浅井エリが白川の勤務先の部屋に酷似した密室に閉じ込めらるシーンがある。なぜ、浅井エリと白川の世界が交わっているのか?その答えは高橋のセリフから読み取ることができる。

 

「〜二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれないぞって。もしあったとしても、はりぼてのペラペラの壁かもしれない。ひょいともたれかかったとたんに、突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなのかもしれない。〜

 

つまり、この物語の中では、人と人の深層的な部分が繋がっているのだ。眠り続けることを選択した浅井エリは、眠ることを放棄した白川の世界に入り込んでしまう。

 

また、浅井エリの世界は、現実のように見えてどこか観念的なものであることに読者はすぐに気付く。その観念の意味するところは”無”だ。浅井マリとコオロギの会話の中で、コオロギが”無”に対する恐怖を浅井マリに訴える場面がある。

 

「でもね、もし万が一やで、それが理解やら想像やらをしっかり要求する種類の無やったらどうするの? マリちゃんかて死んだことないやろ。そんなん実際に死んでみなわからへんことかもしれんで」

 

コオロギが述べる「恐怖の”無”の世界」が、まさに浅井エリが迷い込んだそれなのである。浅井エリは”無”の世界に取り込まれようとしている。

 

物語の最後で浅井マリが現実世界で眠り続ける浅井エリを救い出そうとするシーンがある。姉との過去の記憶を辿りながら彼女を救おうとする。この世界では想いや考えが世界を形成する。だからこそ世界はリンクする。浅井マリは”無”の世界から”二人が共存できる現実”の世界へ「記憶」によって浅井エリを救い出そうとする。そして、物語は浅井エリが示した微妙な「覚醒」の描写で幕を閉じる。朝の日差しが差し込む部屋の中で。

 

「人と人を隔てる壁は意外なほどに脆く、何かの拍子に”あちら”側に落ちてしまうかもしれない。」そんな観念に付き纏う”恐怖”と”愛”を描いたのが「アフターダーク」という小説である。

 

内容抜粋

▪️浅井マリと鏡

彼女はショルダーバッグを肩に掛け、洗面所を出ていく。ドアが閉められる。私たちの視点としてのカメラは、そのあともしばらく洗面所に留まり、部屋の内部を映し続けている。マリはもうそこにはいない。誰もそこにはいない。天井のスピーカーから音楽が流れているだけ。ホール・アンド・オーツの曲に変わっている。『アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット』。しかしよく見ると、洗面台の鏡にはまだマリの姿が映っている。鏡の中のマリは、向こう側からこちら側を見ている。真剣な目で、何かが持ち上がるのを待ち受けているみたいに。でもこちら側には誰もいない。彼女のイメージだけが、「すかいらーく」の洗面所の鏡の中に取り残されている。あたりはほの暗くなっていく。深まっていく暗闇の中に『アイ・キャント・ゴー・フォー・ザット』が流れている。

 

▪️高橋の確信

彼は顔を上げて、マリを見る。そして言葉を選ぶ。

「しかし裁判所に通って、関係者の証言を聞き、検事の論告や弁護士の弁論を聞き、本人の陳述を聞いているうちに、どうも自信が持てなくなってきた。つまりさ、なんかこんな風に思うようになってきたんだ。二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれないぞって。もしあったとしても、はりぼてのペラペラの壁かもしれない。ひょいともたれかかったとたんに、突き抜けて向こう側に落っこちてしまうようなのかもしれない。というか、僕ら自身の中にあっち側がすでにこっそりと忍び込んできているのに、そのことに気づいていないだけなのかもしれない。そういう気持ちがしてきたんだ。言葉で説明するのはむずかしいんだけどね」(中略)高橋は続ける。「僕が言いたいのは、たぶんこういうことだ。一人の人間が、たとえどのような人間であれ、巨大なタコのような動物にからめとられ、暗闇の中に吸い込まれていく。どんな理屈をつけたところで、それはやりきれない光景なんだ」

 

▪️浅井エリの世界と白川の世界のリンク

その部屋が白川が深夜に仕事をしていたオフィスに似ていることに、私たちは気づく。とてもよく似ている。あるいは同一の部屋なのかもしれない。ただし今では、それは完全な空き部屋になっている。家具も機器も装飾も、ひとつ残らずはぎ取られて、残っているのは天井の蛍光灯だけだ。すべての事物が部屋から搬出され、最後の一人がドアを閉めて出ていって、それっきりこの部屋の存在は世界中から忘れられ、海の底に沈められてしまったのだ。四方を壁に吸い込まれた沈黙と黴のにおいが、その時間の経過を彼女に、そして私たちに示唆する。彼女は床にかがみこんで、壁にもたれかかる。めまいと揺れが収まるまで、静かに目を閉じている。やがて目を開け、近くの床に落ちていた何かを拾い上げる。鉛筆だ。消しゴムがついていて、veritechというネームが入っている。白川が使っていたのと同じ銀色の鉛筆だ。芯の先端は丸くなっている。彼女はその鉛筆を手にとって、長いあいだ眺めている。veritechという名前に記憶はない、会社の名前なのだろうか。それとも何かの製品の名前なのだろうか。わからない。彼女は小さく首を振る。その鉛筆のほかに、この部屋についての情報を与えてくれそうなものは、何ひとつ見あたらない。(中略)これは現実なのだ、と彼女は結論を下す。別の種類の現実が、なぜか私の本来の現実に取って代わっているのだ。それがどこからもたらされた現実であれ、私をここに運び込んだのが誰であれ、とにかく私はひとりぼっちで、この風景もなく出口もない、ほこりっぽい奇妙な部屋に置き去りにされ、閉じ込められてしまっている。

 

▪️白川と鏡

白川が出て行ってしまったあとも、私たちの視点はそのまま洗面所に留まり、固定されたカメラとして、暗い鏡をなおも写し続けている。鏡の中には、白川の姿がまだ映っている。白川はーあるいは白川の像はというべきなのだろうかー鏡の中から、こちらを見ている。彼は表情を変えず、動かない。ただまっすぐこちらを凝視している。しかしやがてあきらめたように身体の筋肉を緩め、大きく息をつき、首を回す。それから手を顔にやり、頬を何度か撫でる。そこに肉体の感触があることを確かめるように。

 

▪️浅井マリとコオロギの会話〜無〜

「私はね、輪廻みたいなもんがあるはずやと思うてるの。とゆうか、そういうもんがないとしたら、すごい恐い。無とゆうもんが、私には理解できないから。理解もできんし、想像もできん。」

「無というのは絶対的に何もないということだから、とくに理解も想像もする必要ないんじゃないでしょうか」

「でもね、もし万が一やで、それが理解やら想像やらをしっかり要求する種類の無やったらどうするの? マリちゃんかて死んだことないやろ。そんなん実際に死んでみなわからへんことかもしれんで」

「それはたしかにそうだけど……」

「そういうことを考え始めるとね、じわじわと恐くなってくるねん」とコオロギは言う。「考えてるだけで息が苦しくなって、身体がすくんでくる。それやったら輪廻を信じてた方がまだしも楽や。どんなひどいもんにもこの次生まれ変わるとしても、少なくともその姿を具体的には想像することはできるやんか。たとえば馬になった自分とか、かたつむりになった自分とかね。この次はたぶんあかんとしても、そのまたネクスト・チャンスに賭けることかてできる」