月の砂漠をさばさばと〜さきちゃんとお母さんのものがたり〜
書評
すごくいい本だ。そして今の私に必要な本だった。
9歳のさきちゃんとそのお母さんの日常生活を描いた作品。さきちゃんとお母さんの何気ないやり取りの中に、読者にとってすごく重要なメッセージが込められている。
読書を通して、人は別次元の世界に入り込み、登場人物の追体験をすることができる。その作品が良い作品であればあるほど感情移入できる。
私はお母さんとさきちゃんの世界に入り込み、心を温められ、切なくもなり、そして愛おしい気持ちを抱いた。
この本は私にとって特別な本だ。そしてこのエントリーは偶然にも当ブログの100回目のエントリーとなる。
大切な作品だからこそ、私のことばでこの物語をあまり表現したくない。実際に読んでほしい。子どもから大人まで多くの層の人に読んでほしい。現状うまくいってる人にも、心を少し壊してしまった人にも、読んでほしい。ある人には自分の生き方を振り返る機会を与えてくれ、ある人には心の薬を提供してくれる作品だと思う。
ちなみにこの本の最後には「梨木香歩」さんの書評が載せられている。これも素晴らしい内容だ。とても参考になった。本はこうして読むんだな。
内容抜粋
▪️さきちゃんのお母さんのお話
「お話、お話」
さきちゃんは思います。ケーキ屋さんの子供は、おうちのケーキが食べられるのかな。お花屋さんの子供は、おうちのお花をかざれるのかな。ーそれは、分からないけど、わたしはできたてのお話を聞けるよ。
▪️くまさんの名前
「ねえ、あのくまさん、だまされたのかなあ」
「えっ?」
お母さんはきょとんとしています。
「ほら、昨日のくまさんよ。ー新井さんにだまされたの?」
「ああ。ーさて、どうでしょうねぇ」
さきちゃんは、いつものように二人分のお茶碗とお箸を並べながら、
「名字が替わって、くまさんはね、もう、暴れることができなくなったの?」
お母さんは、フライ返しを、途中で止めて、しばらく考えていました。卵がじゅうじゅういって、こげそうになって、ようやく手を動かしました。お皿に、ちょっと固くなったそれを移して、それからまた、一生懸命、考えています。
さきちゃんは、椅子に座り、お母さんの答をしんぼう強く待ちました。
お母さんは、やがて、さきちゃんの前に椅子を引き、腰をおろしました。そして、さきちゃんの目を見つめていいました。
「ごめんね。くまさんのー大事なお名前のことなのに、母さん、まちがって話したみたい。あれはね。こういうわけだったの。新井さんはね、くまさんに、くまさんそっくりの形の消しゴムをあげたの。くまさんは、生まれてはじめてプレゼントをもらったのよ」
「サンタさんは、くまさんちに行かなかったの?」
「あんまり、乱暴で、自分のおうちも、どすんどすんと揺らしていたから、サンタさんだって怖くて行けなかったの。それで、くまさんは、生まれてはじめて、ありがとう、っていったの。それから、新井さんのおうちに行って、ゆみこちゃんと遊んだの。生まれてはじめてお友達ができて、くまさん嬉しくなっちゃった。それでね、何だが、みんなのためになることをしたくなったの。ちょうどそこに、洗濯機があったから、ごうごう、ごうごう、って洗濯はじめたのよ」
「それで、ゆみこちゃんと二人で干したの?」
「そうよ。新井さんちで洗濯してたから、見てた人たちにいわれたの。あらいぐまさんーて」
「ああ、そうかあ」
「そういわれて、くまさん、どう思ったか。ー続きは、今夜、二人で考えよう」
「うん」
▪️さきちゃんの聞きまちがい
<でも、聞きまちがいって面白い>と、さきちゃんは思いました。普通では考えられない世界をちらりとのぞくような、不思議な感じになります。めちゃくちゃに絵具を振りまいて、そこにできた、奇妙な模様を見るようです。
▪️豆
お母さんは、お豆を一つ取って、さきちゃんに見せます。
「ね、おへそがあるでしょ?」
ソラ豆に限ったことではありません。豆には、みんな、おへそがあります。お母さんは、さやの中を見せます。
「ーね、こことおへそが繋がっているんだよ。そうして、さやは枝に、枝は根に続いている。ー赤ちゃんは、お母さんから栄養をもらう。ー同じように、お豆も、おへそから生命をもらってるんだね」
お母さんもさきちゃんも、食べる時に、そのお豆の生命の、元気をもらうのです。
▪️さそりの運命
さきちゃんは目をつぶりかけて、また開きました。
「ねぇ……」
「何?」
「さそりが、<いたちに食べられた方がよかった>と思うでしょ」
「うん」
「神様が、<それじゃあ>っていって、井戸から上げて、いたちの目の前に置いたら、さそりはどうするんだろう?」
お母さんは、困りました。
「うーん」
「どうなる?」
「ーやっぱり、逃げるんだろうね」
さきちゃんは、薄暗い中で、目をぱちぱちさせました。電気舵取りの臭いが、足元から微かに漂って来ました。
「……そうしたら、神様は、さそりのこと、<嘘つきだ>って怒るのかな」
お母さんは、すぐに、さきちゃんに顔を寄せていいました。
「ー怒らないよ」
本当は、<それに、神様だったらそんな意地悪なことしないよ>と続けたかったのです。でも、この世ではいろいろなことが、ー本当に信じられないようなことがー起こります。だから、そういい切る自信もなかったのです。ただ、これだけはいってあげたいと、同じ言葉を繰り返しました。
「怒らないよ」
▪️月の砂漠をさばさばと
秋になったある日のことです。夕食の時、お母さんが、さばを煮ていました。あたりはしんと静まり返っています。おみその香りが台所に広がります。さきちゃんは、テーブルに向かって、宿題をやっていました。その時、お母さんがゆっくりと歌い出したのです。
「月のー砂漠を
さーばさばと
さーばのーみそ煮が
ゆーきました」
さきちゃんは、思わず鉛筆の手を止め、いいました。
「ーかわいい!」
「え?」
「今の」
お母さんは、みそ煮をお皿に取りながら、
「そう?」
「うん。広ーい広い砂漠を、さばのみそ煮がとことこ行くのって、とっても、かわいいじゃない」
「……なるほど」
教科書とプリントを片付けて、ご飯になりました。お母さんは静かです。何か考えているようです。
「どうしたの」
「うん。あのね、さきが大きくなって、台所で、さばのみそ煮を作る時、今日のことを思い出すかな、って思ったの」
「ーかもしれない」
(中略)
その夜、さきちゃんの脇に、ごろんと横になったお母さんは、
「今日は遅いから、お話はなし。はい、お休み、お休み」
といいました。そして、掛け布団を首のところまで引っ張り上げ、すうすうと寝息をたてるまねをします。でも、疲れていたのか、まだ着替えてもいないのに、本当に寝てしまいました。
さきちゃんは、口の中でつぶやきました。
「月の砂漠をさばさばと……、さばのみそ煮がゆきました……」
そして、小さな手を伸ばし、お母さんの指をそっと握りました。
▪️こどものやること
さて、お母さんは、こんなことを考えました。
ー子供のやることにも、理屈があるのね。あなたのことはとっても可愛い。ーでも、あなたの理屈が見えないことは、これからだって、きっとある。そちらから、こちらが見えないことも。ーいい悪いではなくて、そういうものよね。
▪️さきちゃんのお父さん
その時、さきちゃんは、ふわふわのー綿菓子を思い出しました。
薄いピンクの雲のように、割り箸の先に引っ掛かった綿菓子。お祭りの時、お母さんに買ってもらったのです。小学校に上がる前でした。こんな夢みたいな形で、甘いお菓子なのが、面白かった。チョコレートともケーキとも違います。
さきちゃんは、どうしても、お父さんに見せてあげたくなりました。だから、雲の端を少しちぎってお皿に載せ、食器戸棚にしまっておいたのです。
でも、次の日、見たら、ふわりとしていた綿菓子は、ぺしゃんとつぶれていました。桜を薄くしたような色だったのが、お皿にこびりついた、紅色っぽく、じとじとした、ただの溶けた砂糖になっていました。お父さんが起きて来ても、昨日の、ふくらんだ綿菓子を見せてあげることはもうできないのです。さきちゃんは、何か、とても切ない気持ちになりました。
今も忘れられないくらいの強い思いです。
でも、それを口にしてはいけないような気がして、お母さんにはいいません。
<さき>という名前について、お父さんが、どういっていたかも、聞きませんでした。
▪️さきちゃんと猫
お母さんはせかせかした気持ちのまま、
「首輪してないでしょ、野良だよ。目で見て分からなくても汚れてるよ」
「……」
そのまま、アクセルを踏みました。
「ー蚤とかいるかもしれないし、それにね、今、野良猫には、悪い病気が流行っているんだってさ」
そういう記事が、新聞に出ていたのです。
お母さんが、車を走らせて行くと、学校の塀の途切れる辺りで、後ろから声がかかりました。
「……どうして、そういうことをいうの」
お母さんは、はっとしました。
運転しています。前を見ていなければなりません。それでも、さきちゃんの瞳が目に浮かびました。濡れています。
……さきは、蛙をくれたのに。
お母さんは、心の中で何度も<ごめんね>と繰り返しました。
(中略)
お母さんは、さきちゃんに帰りを促すように、先に自転車を動かしました。数メートルだけ進んで、振り返ると、さきちゃんが猫を抱いていました。
さきちゃんの自転車は、後ろに荷台がありません。ただ後輪の泥よけがカーブを描いてついているだけです。さきちゃんは、そこに猫をまたがらせようとしていました。
猫は、暴れてはいませんでした。ただ、どういうことなのか分からず、きょとんとしているようでした。その格好は、漫画の一場面のようにユーモラスなものでした。
……無理よ。
と、お母さんは思いました。でも、さきちゃんは一途な顔をして、懸命に何とかしようとしていました。風がひゅうっと吹いて、さきちゃんの前髪を揺らしています。
……さき。
お母さんの目からは、いつの間にか、涙がぽろぽろと溢れていました。
▪️さきちゃんとお母さんのこと
中に入ってみたわけではありませんが、書き手としてのわたしは、そういうお宅では、<親子>の縦のつながりが、<友達>の横のつながりに、より近づくような気がしました。自分のいつか歩いた道を通って来る友達の、哀しみやおびえや喜びを見つめる目と、見つめられる小さなさきちゃんを書いてみたいと思いました。
北村 薫