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kaidaten's blog~書評ノート~

日経新聞の要約や書評を中心にエントリーしてましたが、最近はざっくばらんにやってます。

人間革命 第一巻

人間革命〜創価学会と自分〜

人間革命〈第1巻〉 (聖教ワイド文庫)

人間革命〈第1巻〉 (聖教ワイド文庫)

 

 

これまで、いくつかのエントリーで触れてきた通り、私は創価学会の会員である。

創価学会は、日蓮が導き出した「法華経」という仏法の教えを実践する宗教団体。現在192カ国に1000万人以上の会員が存在し、イタリアのインテーザ(カトリック総本山が正式に認める宗教団体の連盟)に加盟するなど、世界的に躍進を遂げている。名誉会長池田大作氏には、各国の自治体や一流大学から名誉博士の称号がいくつも贈られている。今でこそ、このように世間に広く認知される創価学会であるが、その草創期を辿ると、戦前の苦しい時代に生きた一人の指導者とその弟子らによる地道かつ壮絶な戦いがあった。

本書「人間革命」は、創価学会の歴史とその教えを多くの人に理解できるよう、第三代会長(現名誉会長)池田大作氏が執筆した全12巻にわたるノンフィクション小説だ。この本に書かれている内容は、南無妙法蓮華経法華経に基づく創価学会の教えそのものであり、学会員でこの本の存在を知らない人はいない。それほどの名著の内容を、私はこれから12回にわたるエントリーで1巻ずつ紹介していく。

 

 

 

■私の話

突然だが、ここで少し私の話をしよう。
我が家は祖父母の代から創価学会に加入しており、私自身、物心ついた頃には児童向けの学会活動(”未来部”活動)に参加するようになっていた。活動といっても、狂信的な何かをするわけでなく、仏法の教えをわかりやすく紐解いたテキストを使って簡単な勉強会をしたり、未来部向けの書籍から人生哲学を学んだりと、学校の道徳の授業に近いものであったと記憶している。そんな未来部時代を経て、私は高校生までなんとなく信心(南無妙法蓮華経の教えを信じて行動すること)を続ける。その甲斐あってか、幼き頃から、目標や悩み事ができればご本尊に祈り、目標達成、課題解決に向けて具体的な行動に移す習慣を身に付けることができていた。真面目な学会員ではなかったが、とりあえず毎日ご本尊の前に座り、自分の目標が成就するよう祈念していたことを覚えている。今思えばかなり高尚な習慣である。私は祈ったとおりに地元の進学高校に進み、第一志望であった国内最難関の一つである国立大学の現役合格を勝ち取った。模試で結果が出ないこともあったが、毎日御本尊に”合格”という目標が成就するよう祈り、見事入学の切符を手にすることができたのだ。
しかし、残念ながらここから私の退転の日々が始まる。大学入学後、私は創価学会から距離を置くようになる。これまでの成功は全て自分の努力によって勝ち取ることができたのだ、という考えが強くなり、一人暮らしの開始を機に学会活動には一切参加しなくなっていく。その代わりに多くの自己啓発書を読み漁り、巷に広がる”成功哲学”にどっぷりとはまり込むように。私はかねてより、他人よりも優秀でいたい、秀でていたいという想いが異常に強かった。難関大学の合格を勝ち得たことでプライドが高くなった反面、周りの学生も総じて優秀であるため、人と自分を比較して劣等感に浸る機会が多くなる。その穴を埋めようと、さらに多くの成功哲学を学んだ。しかし、残念なことその不幸なループから私が抜け出すことは決してなかった。成功哲学を学び始めたときには、心が躍った。「すばらしい教えを見つけてしまった!これで私は次のステージに進むことができる!」と一人で舞い上がったものだ。しかしながら、多くの読者が経験するように、いわゆる自己啓発書に書かれている内容は「言うは易し行うは難し」ことばかり。内容が抽象的であるため、感銘を受ける一方で、日常生活で実践するにははかなりの克己心が必要になる。確かに正しいことが書かれているのだが、それを知識として知っているのと、実践するのとでは、天と地の差がある。大学院時代を含めて6年間、もちろん楽しい瞬間もないわけではなかったが、私の学生生活を総括すると、「堕落」の6年間であった。そして私はそのままの状態で社会人のスタートを切る。幸いにも学歴だけはあったので、業界最大手、一部上場企業の内定をいただき、システムエンジニアとして働くことに。世間一般の新卒社員と比べると、かなりの高給取りであった。しかしここでもまた私は、他人と比較する自分の悪い癖によって真剣に悩むようになる。周りの同期や先輩と比較しては一喜一憂。仕事でもプライベートでも、他人との比較の中でしか自分の存在価値を見出せなかった。そんな精神状態でまともに生きていけるわけがない。ある時、自分ではどうしようもないトラブルに度々報われるようになる。何ヶ月もそのような状態が続き、ある日、私の体に電撃が走った。激しい動悸と不安感が突然襲ってきた。”パニック障害”の発症。当時付き合っていた彼女と婚約して2ヵ月後の出来事であった。その後、即休職、地元に戻り療養を開始する。しばらくは絶望の連続。頻発する発作と抑うつ状態に疲弊しきっていた。そんなどん底状態の中において、自然と「ご本尊様に祈らなくては」と心の声が自分に語りかけてくる。今思えばこれが私にとっての”真”の発心の瞬間であったと思う。
とにかく毎日、”南無妙法蓮華経”と祈りに祈った。その後も辛い経験をたくさんしたが、医者からも「異例の回復」といわれるほどの早さで私の症状は回復に向かった。そしてその過程でもうひとつ、私の中に大きな変化が生じる。毎日の祈りの中で自分自身のことだけでなく、家族や恋人など、自分に近い人たちのことについても真剣に祈ることができるようになっていたのである。ひたすらに自己中心的で、己の利権のことしか考えられなかった自分が、周りの人々の幸福を願えるようになっていたのだ。症状が回復してから学会活動に参加するようになり、この南無妙法蓮華経という仏法の素晴らしさが徐々に分かるようなになった。この仏法を実践することで、成功哲学書に書かれていた内容を自然と実践することができ、どんどん自分を良い方向に変えていくことができるのだ。もちろん全てが順調に進むわけではない。困難に直面することもある。ただこの仏法の素晴らしさは、”正法を実践すれば必ず難に会う。難が出たときこそ信心を強盛にしていくことで、より高みに自分を連れていくことができる”という教えが存在することだ。他の偶像崇拝や一部のスピリチュアル本に書かれている内容と根本的に異なるのが、”信仰の対象が困難を回避させてくれるのではなく、困難にあったときにそれを乗り越えられる力を与えれてくる”という点であり、それこそが南無妙法蓮華経法華経の偉大さなのである。知れば知るほど、どこまでも庶民の生活に根ざした仏法であることが理解できた。

今現在、私の一日は、ご本尊と向き合い、自分自身の目標や周囲の人の幸福を祈りながら唱題を上げ、その日の決意を固めるところからスタートする。夜にはやはり同じようにご本尊に唱題を上げ、今日一日のことを振り返り、感謝の気持ちを述べる。そして最後に「世界の平和の一切衆生の幸福のために」と祈念し、”南無妙法蓮華経”の題目三唱を上げ、一日を終了する。

この仏法を実践して私は幸せになれただろうか?

「なれました!無事社会復帰もできました!自分だけでなく、周りの人の幸福も願えるようになりました!そしてそれこそが本当の幸せだということに気付きました!この仏法には”桜梅桃李”という教えがあります。桜には桜の、梅には梅の、桃には桃の、李には李の、独自の花が咲き、咲くタイミングもそれぞれ違う。人間も同じ。勇気と自信の光を与えた時、人間はそれぞれの花を開かせてゆきます。他人と自分を比較する必要などこれっぽっちもないのです。」

これが今の私の心の声だ。生粋の理系人間である私は思う。仏法の究極の教えはまだ科学では完全に説明がつかない。しなしながら、仏法を通じた生命力の向上およびエネルギーの流れは、将来必ず科学的に正しく証明される。なぜなら、現に宇宙の縮図とも云える一人の人間である私が、その大きな力によって変革することができたからだ。

 

■人間革命一巻書評

さて、前置きが長くなってしまったが、冒頭で述べたように、本エントリーを含めて12回、創価学会を語る上で絶対に欠かせない「人間革命」全十二巻の内容を紹介していく。学会員でない人にも是非一度読んでいただきたい。

第一巻は、後に創価学会第二代会長となる戸田城聖が、敗戦を前にして刑務所から出獄してくる描写から始まる。治安維持法の強化により、信仰の自由は妨げられ、それに断固として反対した戸田城聖と初代会長牧口常三郎は特別警察によって逮捕され、投獄されることになる。牧口会長は獄中死することになるが、その死に際の顔は実に聡明だったという。師匠の死を目の当たりにし、日本政府に憤る戸田城聖が、牢屋の外に出てきた瞬間から物語はスタートするのだ。

やがて甚大な被害を出した戦争が”敗戦”というかたちで終局を迎え、日本はGHQの統治管轄下に入る。激動の時代の最中、第二代会長戸田城聖が、ただ一人、日蓮大聖人が見出した南無妙法蓮華経法華経を”広宣流布”するために立ち上がる。戦前、牧口会長によって創立された「創価教育学会」は政府の弾圧により事実上壊滅していた。実業家としての才があった戸田城聖は、通信教育事業を立ち上げ、学会再建に向けた地盤構築に励む。業務外では、自身が獄中で悟り得た日蓮大聖人の教えを人々に伝授していく。その過程を描いたのが人間革命一巻だ。読むたびに驚くことは、世間で起こる大惨事が、日蓮大聖人の教えに寸分違わずその通りになっていることだ。改めてこの仏法の偉大さを思い知った。そして、かつての日本政府がどれだけ醜悪な存在であったのかを再認識することができた。

創価学会がどれほどの逆境の中からスタートした組織であるのか、この第一巻を通して知ることができる。学会員である以上、この本を読まずに”師弟不二”を語ることはできない。そう断言できる一冊だ。

 

内容抜粋

■黎明

師弟不二、生死不二の精神
戸田城聖の恩師である、創価教育学会の会長・牧口常三郎は、死によってこの門を出た。彼は、今、この門を生きて出たのである。生死の二法は一心の妙用なり、という。そして牧口も戸田も、共に人類の平和と幸福を実現する広宣流布の一念には、何ら変わりはなかった。師弟不二、生死不二なればこそ、宗教革命の血は、脈々と受け継がれていたのである。

 

・庶民が持つ人生の真実
戸田城聖は、そんな空気にはいささかも頓着しない。彼は、電車の中でも、街のなかでも、いつも庶民と共に生きていく指導者であった。”庶民は、雑草のようである。しかし、雑草も生えない野原に、草木が生い茂り、果実が実るはずもない。庶民の強靭な生き方には、時によっては、哲人や宰相にもない、人生の真実が含まれているものだ・・・・・・”

 

治安維持法という悪法
治安維持法は、終戦直後、マッカーサー指令によって廃止になり、多くの思想犯は無実の人となったが、この法律が廃止されたために、以来、国の治安が危殆に瀕したということは、一度も起きなかった。悪法の悪法たるゆえんである。

 

戸田城聖の教育者としての才覚
その点、戸田の教育法は、実に際立っていた。彼は、子どもたちの旺盛な好奇心に応えて、具体的な事実から、一つの数学的概念を認識させ、それから推理を重ね、いつの間にか複雑な、高度な概念を理解させる。この過程は面白くて、無理がない。そして、学問の楽しさを、子どもたちは、小さな胸に獲得するにいたる。

 

・理論の実践にこそ価値がある
彼はどんなに卓越した理論も、それが社会の実践の場に応用されて、多くの価値が創造されなければ、所詮は、絵に描いた餅に等しいと考えていたのである。

 

・黎明を告げる鐘
彼は、やがて御本尊を仏壇にお掛けして、室内を見渡した。だが、今、この胸中を、誰に伝える術もないことを知ったのである。底知れぬ孤独感が、彼を、ひしひしと襲った。彼は、また、わが心に言い聞かせた。”慌てるな、焦るな。じっくりやるんだ。どうしてもやるんだ……” この深夜、彼の心のなかで、黎明を告げる鐘は殷々と鳴り渡ったが、それを誰一人、気づくはずはない。その音波が、人びとの耳に、かすかに轟き始めるには、数年の歳月が必要であった。だが、日本のまことの黎明は、この時に始まったのである。それは後世の歴史が、やがて、はっきりと証明することであろう。前途は、あまりにも暗かった。国家の行く手は闇で、彼の身辺も底知れず暗かった。だが、彼の心のなかだけが、黎明を呼んでいたのである。彼は思った。”闇が深ければ深いほど、暁は近いはずだ” 警戒警報は、やがて解除になった。

 

■再建

・師を持つことの幸福
人生の最大の幸福は、生涯の師をもつことだともいえる。戸田は師を選び、師をもったことによって、いわば人生の教育者といった風格を、自然に備えるにいたった。

 

・時は来た!大悪をこれば大善きたる
”時が来ている!「大悪をこれば大善きたる」(御書1300ページ)だ!” 彼は、大白法興隆の時が、ついに来た感を、強く全身で確信していた。日本にとって、この事態は有史以来の出来事であった。だが、最大の不幸の根本要因は、日蓮大聖人の生命哲理に、既に、あまねく説きつくされていた。してみれば、この生命哲学の根本の原理によって、すべての不幸な民衆を、未曾有の幸福の彼岸に運ぶことも、また必然の理としなければなるまい。大聖人滅後六百六十数年ーその間、誰一人、現実には、その予言の真実を覚知しなかった。あるいは理論として、概念的には説く人があったかもしれない。しかし、生命哲理の偉大さを知り、悟らざるを得なかったのは、いったい誰か……。戸田は、深い思いにふけりながら、感動に身を震わせていた。”まさしく、時は到来した。この時を外して、未来永劫に広宣流布の時はない。絶対に、この時を外してはならない。妙法流布の条件は、ことごとくそろった……”

 

・ご本尊様の功徳の力
才能には限りがある。運、不運も重要なカギとなってこよう。賢者が、必ずしも成功するとは限らない。愚かそうに見える人が、思いもよらぬ大成をなすことだってある。それが、複雑微妙な世間のことわりだ。戸田は頬から笑いの影を消して言った。「君たち、今日のことをどう思う。法華経のために牢屋にぶち込まれた、まる三年間、死ぬ苦しみで戦った、その功徳なんだよ。才能だけのものではないんだよ。功徳になるんだ。御本尊様は、ご存知なんだ。実に、すごい御本尊様なんだ」彼の両目は、キラリと光り、結んだ唇は気高かった。

 

■占領

マッカーサーという梵天
一国が正法を弾圧し、誤った教えを擁護し、さらにその誤った教えが一国に充満した時、その大罪を責めぬ守護神を、仏は梵天、帝釈等を使わして治罰する、という仏法の法理を、彼は知悉していた。”マッカーサーという人物は、何者であろうか。この法理から見れば、梵天の働きをなす人、これがマッカーサーに当てはまる。彼は、将来の日本民族にとって、とりわけ正法護持の人びとにとって、マイナスをもたらす人ではない。なんらかのプラスをもたらす人であるはずだ” 大宇宙の法則である仏法の鏡に照らし、戸田は、そう確信しきっていた。この時、既に戸田は、ほかの誰よりも、マッカーサーという人物の本質を根本的に見抜いていた。以来、約六年にわたる占領政策には、さまざまな功罪はあった。しかし彼は、多方面にわたって仕事をこなし、一応、成功といってよい実績を残した。それは、韓・朝鮮半島における占領政策と思い合わせてみても、頷けるところである。

 

・困難は自分がつくるもの。それを乗り越えるのも自分
彼は、一人ひとりの顔を順々に眺めながら、厳しい表情になった。そして、さらに続けて言った。「困難というものは、自分がつくるものだ。それを乗り越えていくのも、ほかならぬ自分だ。困難を避ける弱虫に、何ができる!そんな弱虫は、この戸田の正学館にはいないはずだ。一切の責任は、私にある。事業がうまくいななくなって、君たちを責めたことが一度でもあるか。奥村くん、一度でもあったかい」

 

・大聖人の仏法の偉大さ
「みんなの心が一つになれば、必ず事は成就する。計画したことが全部はできなかったとしても、必ず思いもかけぬ新しい道が、そこに開かれていくものだ。これが大聖人の仏法を信ずる者の強さであり、ありがたさだ。心配ない。断固として、やろうじゃないか」

 

マッカーサーに占領された日本の運命
けれども戸田は、自身の心に影を落としたダグラス・マッカーサーに、不思議な親近感を覚えいていた。それは、仏法の法理に照らして、戸田が、マッカーサーの歴史的な役割を、正確に見ていたからであろう。だが、むろん戸田を除いて、そのことは誰一人として気づくべくもなかった。戸田はそのような不思議な人物に占領された、日本の運命に思いをいたした。

 

・人間の心が、修羅や畜生の生命に占領されていることが何よりの悲劇
”ともあれ日本は、占領されてしまった。確かに、民族としてみれば、これ以上の悲劇はない。だが、人間の心も、修羅や畜生の生命に、占領されきっている場合がある。社会や国家が、悪魔の思想に占拠されている場合もある。その方が、より悲劇的なことだ。しかし、御書には、「大悪をこれば大善きたる」(御書1300ページ)と仰せである。一国謗法の大悪は、日本に正法が興隆する前兆なのだ。この法理からすれば、やがて日本が、仏界に覆われていく日も、そう遠くはないだろう・・・・・・” 戸田は、一国の変毒為薬を心深く期していたのである。

 

■一人立つ

・信心さえあれば絶対に幸福の境涯に至ることができる
「大聖人様の教えには、絶対に間違いはない。大聖人様は、難に遭われた時、こうおっしゃっている。『我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし』(御書二三四ページ)どんな目に遭っても、御本尊様を疑ってはいけない。疑わず、信心さえあれば、そのまま黙っていても、自然に、仏の境涯に到達できるのだ。絶対の幸福生活ができるとの仰せなのだ。みんな、今は辛かろうが、疑わず、ちゃんと信心さえ貫けばいいんだ。それによって、損するか得するか、一生の勝負が決まってしまう。どうだ、忍耐強くやれるかね?」

 

・神自体に拝むのは誤り。法華経に祈ってこそ神の功力を得ることができる
国を挙げての天照大神への信仰は、国家権力を背景にして、日を追って激しくなっていたった。戦争遂行のための思想統一であった。天照大神を拝まぬ者は、国賊とされた。また、反戦思想の持ち主と断定されるにいたった。ところが牧口門下の折伏戦は、その戦時下にあっても、なお天照大神の神札を否定し、取り払っていた。牧口会長は、大聖人の御聖訓に照らして、戦争遂行の象徴である天照大神は、法華経守護の神にすぎず、法華経に祈ってこそ天照大神の功力が現れるのであって、神自体を拝むのは誤りである、と主張して、はばからなかった。

 

・獅子は伴侶を求めず
ふと、彼の頭に、ある言葉が浮かんだ。-獅子は伴侶を求めず。これまで、彼を襲った異様な孤独感は、暗々裏に伴侶を求めていたことからきている。彼の弱い心の仕業であったかもしれぬ。獅子は伴侶を求めず-伴侶を心待ちにした時、百獣の王、獅子は失格する。獅子には、絶対、孤独感はない。伴侶は求めずして、ついてくるものだ。広宣流布の実践は、獅子の仕事である。自分が獅子でなければならぬなら、伴侶は断じて求むべきではない。自分が真の獅子ならば、伴侶は自ら求めて、自分の後についてくるにちがいない。要は、自分が真の獅子であるかどうかにかかっている。まことの地涌の菩薩であるか、否かだ。

 

・一人立てる時に強きものは、真正の勇者なり
シラーは言った。”一人立てる時に強きものは、真正の勇者なり” と

 

■千里の道

・戦争当時、天照大神も諸天善神も日本にはいなかった
戸田城聖は、これらの世相に心を痛めた。そして瑞穂の国が、飢えたる国になっている実相に、目を凝らしていた。彼は考えた。”もし、諸天善神がいたとすれば、敗戦という、国民にとって最大の不幸な事態にいたった現在、せめて豊作となって、われわれを守ってくれたはずだ。この悲惨極まりない状況は、天照大神も、諸天善神も、日本の国にはいなかった証拠ではないか”

 

戸田城聖の気付き(正しい教えに基づいて生きることの重要さ)
戸田は、思った。”いずれの神であれ、本質的には、人びとの生活に影響を与える、なんらかの働きを、人格化したものにほかならない。であるならば、これらすべての神々は、仏教に説かれる神の概念に含まれてしまうのではないか。(中略)神は、人間の心がつくりだしたものであり、生命のもつ働きを具象化したものといえる。(中略)正しい教えに基づいて生きれば、その人生には価値が創造される。それが諸天善神の働きであろう。もし、誤った教えに基づいて生きれば、反価値を生じて人生に不幸をもたらす。それが魔王の働きともいうべきものだ。日本が愚かな戦争に驀進し、戦後も悲惨極まりない生活を国民に強いることになったという現実は、諸天善神が働かなかったということであり、その時代、社会に、正しい指導理念がなかったことを示している。善神が国を捨て去り、天に上っているとする、日蓮大聖人の「神天上の法門」とは、こうした現象を教える法理といえる……” 戸田は、日蓮大聖人の仏法の真髄に触れて、初めて、このような生命の法理を悟ったのであった。真剣な唱題と思索によって、豁然と悟ったのである。

 

・人間の生命ほど尊いものはない
”(中略)何よりも、生命の尊厳を、仏法によって本源的にしらしめねばならぬ。人間の生命ほど尊いものはない。その一人ひとりの生命を、事実の活動のうえに尊貴たらしめるためには、妙法の力によって、偉大な生命力を涌現させる以外にない。それには仏法によって、大我の生命を開覚し、真実の人間復興をもたらす人間革命を、人びとになさしめなければなるまい。政治や教育、科学、文化等の華は、そのうえに、おのずから、咲いていくものだ。すべての基盤を人間に置き、最も人間性を尊重し、平和で幸福な新社会の建設を実現するのだ”これが彼の信念であった。真実の民主主義は、単なる政治機構や社会体制の変革だけで、出来上がるものではない。何よりも、個人の生命の内側からの確立が出発点であり、土台となる。それが、次の時代の幸福生活への第一歩でなければならぬことも、戸田は鋭く見抜いていた。

 

・富士山と法華経
富士は、日本の象徴であり、日本一の名山である。この山は、古書には大日蓮華山とも記されている。日蓮大聖人の名号と符合していることも、不思議といわなければならない。山頂は、八葉の姿となっている。八葉の蓮華は、法華経八巻にも通ずる。

 

妙法蓮華経の意味について
妙法を、無明と法性という次元から解釈すれば、妙は法性であり、悟りである。法は無明であり、迷いを示す。したがって妙法とは無明と法性とは一体であることを表している。蓮華とは因果の二法を示しており、これもまた、因と果とは一体、因果倶時であることを表している。経とは、一切衆生の言語音声のことである。経について章安大師は、『声が衆生を救う仏の振る舞いなのであり、これを経というのである』と解釈している。また別次元から言えば、過去・現在・未来と三世にわたって永遠であることを経というのである。つまり、全宇宙が妙法であり、蓮華であり、経である。また、蓮華とは、仏の生命である。八葉九尊は、その仏の生命を表している。よくよく以上のことを考えるべきである。


戸田城聖は我見でないことを証明するために文証を引用した
彼は、御書に説かれている生命論を、なんとか、現代的に砕いて、わからせようと努力した。この完璧な生命哲理を世界に流布するならば、人類は完全に、また永遠に救われていくことを、彼は確信していた。戸田は、さらに生命論を説いていった。そして、その裏付けとして、文証を引用し、講義を続けた。我見を恐れ、また我見でないことを証明するためにも、彼は、丹念に文証を引用したのである。「(中略)つまり、衆生であるわれわれ自身が、妙法蓮華経の当体であるということです。(中略)」

 

・一切衆生如来である
「(中略)われわれが、自分のことをどう考えようが、それは勝手です。だが、その勝手さが間違っているだけだ。どう考えようが、どう思おうが、大聖人様は、一切衆生如来である、と断言していらっしゃる。ところが凡夫の拙さで、これが信じられないのだ。したがって、六道輪廻で、壊れない幸福を築くことができない。まったく愚かな話です。この御文に続いて、末法法華経の行者の宝号を、南無妙法蓮華経というと仰せになっている。これは、日蓮大聖人こそ、南無妙法蓮華経、とお呼び申し上げる仏であるとの御心です。ですから、人に約すれば、妙法蓮華経の当体は、総じては末法の凡夫である。別しては、日蓮大聖人であられる。法に約すれば、宇宙生命それ自体が、妙法蓮華経の当体であるというのです。ゆえに、われわれ生命も、妙法の当体であり、宇宙生命と同一のものということができる。だから、仏とは、総じてはこの生命のことといえるわけです!だから、仏とは、総じてはこの生命のことといえるわけです!」

 

・永遠とは、瞬間、瞬間の連続。その瞬間の本源、本体こそ、南無妙法蓮華経
彼は、宝蔵にあって力強く唱題し、大御本尊に、苦難の歳月を乗り越えることのできたお礼を申し上げた。さらに、広宣流布の新たな決意を、ひときわ強く訴え、唱題するのであった。一瞬、過去も、未来も、遠く消えていくように感じた。あるのは、御本尊に向かう、一個の戸田城聖だけであった。その間に流れるものは、永劫ともいうべき、生命感だけである。彼は、この時、思った。”永遠とは、瞬間、瞬間の連続である。瞬間の連続が、永劫である。その瞬間の本源、本体こそ、南無妙法蓮華経である……” 厨子の扉が閉じた瞬間、彼は、われに返った。五体には、言いようのない歓喜が満ちあふれてきた。

 

・千里の道を進む
彼は千里の道を、一歩踏み出せたことを喜んだ。”獅子は、千里の道を一人征く。伴侶を求めず、だ。俺も征く。俺は、広宣流布をめざし、障魔の嵐を打ち破り、逆巻く怒涛も乗り越えて、断じて進む。征く、戦う” 彼は、心に強く誓った。


・大悪をこれば大善きたる
「大悪をこれば大善きたる」(御書1300ページ)御金言は、間違いない。それならば、未曾有の興隆の時は、今をおいて絶対にない。今、この道は、千里の道に見えようとも、それは、凡夫の肉眼の距離にすぎない。指針弘法の精神があるならば、広宣流布は必ず成就できる。彼は、閑散とした境内を眺めつつ、腰を上げた。

 

■胎動

・人間革命について
彼らが、その変化の源泉を尋ねると、戸田は、「仏法の真髄たる日蓮大聖人の生命哲理の実践だよ」と言った。さらに戸田は、「正法を、真実に、勇敢に実践し、宿命を打開していくことを人間革命というのだ」と語った。そして、一人の人間の根底的な変革は、仏法の法理に則り、それぞれの主体性を確立して、大いなる生命力を涌現させることによって、なされるのであると訴えた。さらに、その人間の変革が、一切の生活や文化、政治、教育、社会の変革につながる最も近い道であること、しかも本源的な革命であることを、彼は強調してやまなかった。

 

・南無とは?南無妙法蓮華経とは?
「まず、法華経の講義といっても、要するに、大聖人様の南無妙法蓮華経が、いかなるものかということがわかれば、それでいいのです。そこから始めましょう。南無妙法蓮華経、さぁ、説明になると、これが非常に面倒であります。南無という意味は、南が無いということではない」くすくす笑う人があった「これは、梵語であり、日本語では、帰命と訳します。また、帰命頂礼とも言います。われわれの信心の立場から論ずれば、大宇宙の妙法という大法則と合致せしめることであり、また、南無妙法蓮華経という仏様と、境地冥合するということでもあります。つまり、南無妙法蓮華経とは、仏様の名前であり、この仏様を久遠元初自受用報新如来とも申し上げ、それは日蓮大聖人様のことであります。それを、特に、南無とはなんだ、妙法とは、蓮華とは、経とはなんだといえば、これは一つ一つ甚深の哲理を含んでおります」

 

戸田城聖が考える真の宗教とは?
戸田は、宗教と科学との研究対象の相違を明確にし、真の宗教は、決して修養ではないことを述べた。そして、「生命の法理に基づいて、われわれの生命生活を、いかにすれば『幸福』にできるかを、研究し、実践するのが宗教である」と、日常生活を例に引いて、説いていった。

 

・南無の意味
「(中略)南無とは、日本の言葉で、帰命という。ですから、南無するといえば、心も身もともに、信じて捧げることを意味します。その帰命する対象を本尊といい、これに”人”と”法”とがある。人とは御本仏・日蓮大聖人に帰命することで、法とは南無妙法蓮華経に帰命することであります。また、帰とは色法、すなわち、われわれの肉体であり、命とは心法、すなわち、われわれの心のことであります。大聖人は『色心不二なるを一極と云う』(御書708ページ)とおっしゃっております。われわれの肉体と心は、別々のものでは絶対にない。それが一致しているのが、真実の生命の極致である。体は会社に、心は家にあるとなると、えらく面倒なことになる。人間は、自分の体のあるところ、必ず心が一致していなくてはならない。その一致するところが、本当のわれわれの、生命の状態なのです。とにかく、色心不二なる状態を南無妙法蓮華経というのであります」

 

創価学会の誕生
”仏法による救済と革命は、ひとり教育界のみを対象とするものではない。仏法を、苦悩に沈む一億の民衆のなかに、広く、深く浸透させ、幸福を実現していくことこそ、日蓮大聖人が示された広宣流布の道ではないか。学会は、全民衆を対象とした、広宣流布のための教団であらねばならぬ”そう考えた戸田は、その新しき出発のために、「創価教育学会」という名称を、「創価学会」と発展的に改めたのである。

 

■歯車

・自行化他の信心を実践していくこと
「大聖人様のおっしゃる通り、自行化他にわたる信心を、真面目に実践していけば、自然に信じざるを得なくなる。誰にでも、わかることだ。君たちも、必ずわかる時が来る。これが、生命の根本の法則なんだよ」