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kaidaten's blog~書評ノート~

日経新聞関連の時事ネタを中心に書評ノートを公開中。小説や実用書、自己啓発本についてもたまにエントリー。

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人間革命 第三巻

書評 

人間革命〈第3巻〉 (聖教ワイド文庫)

人間革命〈第3巻〉 (聖教ワイド文庫)

 

人間革命第三巻のテーマを自分なりにあげるとするならば、「問題の核心は生命にある」ということ。

 

第三巻では、学会員の体験に焦点が当てられており、戸田城聖自身も実証をともなった体験の重要さを説いている。実践のともなわない哲学に価値はない。

 

南無妙法蓮華経法華経は生活に根ざした法であり、一人ひとりが自分の生命の本質を変え、実証を積み重ねていくことで、信心を深めていく必要がある。”東京裁判”の様子を詳細に記載したのも、「問題の核心が生命にある」というテーマに起因していると思う。科学技術が急速に発展し、文明がどれだけ進歩しても、”不幸”という人類史上最大の問題は一向に解決されない。解決されないどころか、未曾有の世界大戦が引き起こされる程に深刻化している。

 

結局のところ、人間の生命の本質が変わらなければ、この問題は解決できない。世相と照らしても寸分違わないこの事実を、本書を読み進めることで読者は理解できる。

 

人一人が、自分自身を変革させる「人間革命」こそが何よりも重要だ。それを実現させるのが御本尊を根本とした真っ直ぐな信心なのである。

 

 

 

内容抜粋

▪️新生

・知恵ある人間の不幸

”惑星のなかで、太陽にいちばん近いのは水星で、平均距離約五千七百九十万キロの軌道上を、毎秒約四十七キロの速度で公転し、約八十八日で一周し終わるという。水星の表面は、昼間は、太陽の強烈な放射熱のために大変な高温となり、逆に夜は、極寒の世界となることから、生物の存在は考えられない。太陽を取り巻く惑星のなかで、地球だけが、不思議にもほどよい位置にあって、無数の生物を宿している。そして地球は、三百六十五日五時間四十八分四十六秒で一回の公転を終えている。これらの厳然たる事実を、つぶさに知ってしまった地球上の一生物、人間の知恵とは、なかなか大したものだ。だが、その知恵ある人間が、それぞれ背負っている、抜きがたい不幸に、いつまでも戸惑っているというのは、いったい、どういうことなのであろう。不幸というものの実態は、宇宙の神秘さよりも、はるかに不可思議で、厄介なものだからであろうか”

 

・相変わらずが空転になる

「(前略)ぼくがいようが、いまいが、もっと自分自身の信念で、信心で、心から訴えきっていけ、と言いたいのだ。みんなの話は、理屈はわからなくとも、強盛な信心で功徳を受け、歓喜している初心者の確信にも、かなわないのじゃないか。組織が秩序だってくると、どうしても幹部の惰性が始まる。しかし、自分では気がつかない。相変わらず、結構やっていると思っている。この相変わらずが、空転になる。それがくせものなんだ。」

 

・十界互具の御本尊を持つ戸田の確信、春光

「(前略)あらゆるものを、刻々と変転させていく力、それを生命といい、如々として来る、この力を如来といい、仏と名づけるのです。この力を大聖人様は、さらに南無妙法蓮華経とおっしゃった。そして、それを具体的に、十界互具の御本尊として、お残しになった。一切の根本である、このことを度外視して、われわれの信心はない。宇宙自体にも、われわれ一人ひとりの小さい人間にも、すごい生命の力、南無妙法蓮華経があるんです。この信心をして、それが自覚できないということは、自分が損です。機械があっても、モーターのスイッチを入れないのと同じだ。音楽家が、ピアノの前に座ったきりで、キーを叩かないのに等しい。諸君が、こんな調子で信心をやっていけばいい、などと考えていたら、なんの意味もない。また、今の不幸が、生涯、続くように思えても、それは変わっていく。信心している限り、必ず幸福へと変わっていく。それが自然の理であり、宿命転換ということだ。また、今の幸福が、永久に続くように見えても、この根本の信心がない限り、いつ不幸な方向へと、変換してしまうかわからない。国だって同じだ。今、日本の国は他国に占領されて、どうにもならない不幸に陥っている。いったい、いつまた幸福が到来するだろうかと、みんな絶望しているが、私は決して絶望などしていない」戸田は、正確な史観と、誤りのない哲理をもって、すべてを判断し、実践していた。彼の前途には、常に春光が輝いていたのである。

 

・大聖人の御言葉が外れたことはない。

「(前略)なぜならば、日蓮大聖人が絶対の保証をなされている。不肖の弟子・戸田の知り得た限り、大聖人の御言葉が外れたことはない。それは一切の真理の根本を過たず、お説きになっているからだ。(後略)」

 

・宇宙の法則

「地球が、宇宙の惑星の一つなら、われわれ人間も、同じだ。宇宙のなかで活動する、人間という一つの存在だ。人間の活動といったところで、宇宙のリズムである法則から免れることは絶対にできない。このことを度外視して、いくら努力しても、何も始まらない。ある場合は、一生懸命、宇宙の法則に逆行している時もある。こうした微妙な一種の不調和が、生活に現れる時、人間は不幸を感じるわけだ。この法則を、生命という分野から、事実に即して根本的に説かれているのが、大聖人の仏法です。だからこれがわかってしまえば、我即宇宙であり、宇宙即我ということになる。かつて、どこかの科学者が、人間は一個の小宇宙なり、と言ったことを覚えている。しかも、それは観念の世界のことではない、現実の、この世界のことだ。(中略)しかし、妙法を受持しない人は、根本的に宇宙運行のリズムに乗ることができないのだ。脱線したまま走っているような人生になるのは、当然の理なんです。だが、われわれは、御本尊を授受し、妙法を唱えることができた以上、意識しようがしまいが、脱線した人生から立ち上がって、宇宙運行のリズムの軌道に、ちゃんと乗ることができる。(後略)」

 

・ただ確信して信心していくこと。戸田の命をかけた保証

「(前略)若木も一日では伸びない。赤ん坊も、一日や二日ぐらいでは大きくならないのと同じく、宿命打開の長い信心が必要になってくるんです」(中略)「ただ、このことを確信して実行してみるか、疑ってやらないか、それで右になり、左になるだけだ。反対されればされるだけ、あなたの宿業は浄化されると決めていってごらんなさい。必ず後になってわかる。つまり、その宿業の原因を変えたとすれば、結果はどうなってきますか。宿業が変わる。したがって、あなたの宿命が大きく変わっていきます。法華経にも『衆罪は霜露の如く 慧日は能く消除す』(七二四ページ)とある。そこまで信心を貫き通さなければ、意味がない。いやだろうが、苦しかろうが、やり抜けば、お灸をしたあとのように、さわやかになるんだよ。永遠の生命から見れば、その苦しい半年や一年は、瞬間のようなものだよ。一家の根本的な改革の道があるのだから、あとは勇気をもってやってごらん。この戸田が命にかけて保証します」

 

・山川夫妻の功徳

山川夫妻は、「日本一の貧乏人」という、ありがたくない代名詞と”予言”をもらったが、この時は気にもかけないようであった。この一家に、”予言通り”の貧乏が始まったのは、一年後からである。そして、その状態は七年も続いたのであった。戸田の言葉を、しみじみ思い出したのは、そのころになってからだったにちがいない。彼らは、この夜の戸田の指導に間違いのないことを一年ごとに知って、心から信心に立ち上がった。その結果、次第に福運を積んでいった。子どもも、さらに生まれたが、家族全員が健康に恵まれ、長男をはじめ子どもたちも、社会にたくましく巣立つようになった。山川一家の、幸福への不動の礎が、この夜の戸田の厳愛の言葉によって、築かれたのであった。入会した山川夫妻にも、初信の功徳は歴然と現れた。それは、きよの結核である。彼女は、四年前に大喀血していた。それ以来、年一回は、医者を恐怖に陥れるような大喀血を繰り返し、特異体質の患者として、再起不能とまで言われていたのだ。ところが、信心してほどなく、一日中、起きていられる体となった。さらに、長年の神経痛や、膀胱炎まで治っていたのである。生命に実感として味わった信仰の功力と、その喜びに、一家の楽しく真剣に唱題していった。

 

・戸田の確信と慈愛の言葉

彼は、逆流のなかに身を置く思いで、まず、自身の心中で戦ったこともあった。足をさらわれるか、わらわれないかー指導の前に、まず、彼自身が勝たねばならなかった。そして、彼の優しく、また強い心には、この戦いのあとに、慈愛と信念とが満ち満ちてくるのであった。「それでいいのだ。いいのだ。大事なことは、所詮、御本尊に対して、赤子にように素直で、たくましい信心さえあればいいのだ。それが、自己も、家庭も、環境も、社会も、すべてを必ず解決していくのだ」彼の確信と慈愛の言葉は、この世の不幸と悲惨を、一つ、また一つと、消滅させていくのであった。

 

▪️渦中

・いかなることにも全精魂で打ち込む

戸田は、いかなる事業、活動においても、惰性に流されることはなかった。常に知恵を輝かして、全精魂を打ち込んでいった。もし、「長」としての自分が惰性に流されれば、自然に、その一念は社員たちに反映し、なんらかの影響を及ぼさずにはいないと考えたからである。

 

・事業に対する戸田の姿勢

(前略)しかし、戸田は、当時の金額で、合計二百数十万円の負債を、敗戦直後に、一切、引き受けていたのである。当たり前のことではあるが、事業に対する信用と責任を、最も重んじたともいえる。

 

・信心は生活法

連日連夜の精力的な活動は、他の事業家たちより、はるかに多忙を極めていた。そのなかで、事業は一つ一つ成功を収めていた。彼の日々の行動を、つぶさに目の当たりにした人びとは、信心が、まさしく生活法であるという実証を、まざまざと見る思いがした。

 

・間違ったものは絶対に信じてはならない

「私が勝手なことを言うのではない。大聖人が、このことを一人ご存知で、私どもに教えてくださっているんです。間違ったものを、絶対に信じてはならぬ。信仰の対象となるものが、幸・不幸の根本となることを知らなくてはならない」(中略)「あなたが悪いのではない。鬼子母神という誤った対象を本尊としていることが間違いだったんです。そのために、知らず知らずのうちに、不幸な方向に引きずられているんです」(中略)戸田は、法華経の陀羅尼品の話をし、本来の鬼子母神の働きを説明した。

 

・仏法理念に立脚した平和革命

 (前略)われわれのめざす実践は、決して流血のともなう革命ではない。仏法理念に立脚し、あくまで生命の尊厳を基調とする、無血革命であり、平和革命なのである。この理想的な革命こそ、人類が悠久の昔から待ち望んでいたものではなかろうか。

 

▪️群像

・絶対的幸福とは?

戸田は、いつになく厳しい顔になった。「愚痴だ。この信心をなんだと思っている?楽な暮らしがしたいのか。世間に、ちやほやされたいのか。そんな、かたちだけの幸福にのみ憧れて信心したのか。この大聖人の仏法の究極の目的は、永遠の生命を悟ることだ。生命というものが、永遠であるということを、わが身で体得することだ。これを絶対的幸福という。この幸福は、永遠に続くものであり、崩れることは決してない。その確立のために信心していくんです。目的観の低いことが、今の君の不幸なんだよ」(中略)「その愚痴の心が、君のすべてを殺している。日本一の女性になりなさい。必ずなれるんだよ」清原かつは、泣きながら、にっこり笑った。彼女は、戸田に指摘されて、自分の悩みが、単なる愚痴にすぎなかったことに気がついた。そして、もう決して愚痴を言うまいと思った。人間として、愚痴を言わないということは、革命的なことであろう。それを彼女は、やり遂げようと決意したのである。愚痴を己の心から叩き出そうと心に決めた。そう決めると、なんとなく身も軽くなったようであった。もう、くよくよと思い煩うことはないのだとわかると、歓喜が込み上げてくるのを覚えた。彼女の心のなかに、たくましい、輝くような生命が、かすかに浮かんできた。それは彼女にとって、信心の第二期、第二の人生の出発ともいうべきものであった。

 

・方法を最大限生かすもの

「方法の問題か。方法も大切だが、もう一歩奥にあるものを考えなければいけない。それは、方法を最大限に生かしきっていくものは、信心であるということです。信心が強盛になって、強い自分に立ち返り、女王のような気位をもって、体当たりで問題の解決に取り組んでいくことだ。やってごらん。ただし、感情的になっては負けだよ。あくまで冷静に処理しなさい。後は自分たちの幸福のために、御本尊に願いきっていくことだ。一人が大事なんだよ。その一人の人の信心によって、みんなが最後は幸せになっていけるんだよ」

 

山本伸一の考え

戸田城聖法華経の講義は、彼にとって大きな驚嘆であった。日蓮大聖人の仏法は、最高の驚異であり、戸田城聖の風貌は、彼の心に不世出の師として焼き付き、鮮明に残っていた。それでありながら、彼は心中深く、どうすることもできない一つの困惑を感じていたのである。戸田城聖のもとに、全生涯を創価学会に託することは、目的が偉大であるだけに、将来は大変な苦労となるだろう。やり通せるか、通せないか、そのいずれかである。それを、彼は直覚していた。だからこそ、心のなかで精いっぱい抵抗をしていたのである。”逃げ出すなら、今のうちだ。後では取り返しはつかないぞ”彼は、時に悶々として逡巡した。しかし、読書や思索において直面するさまざまな難問が、戸田城聖に教えられた大聖人の仏法哲学の片鱗によって、ものの見事に割り切れていることを知り、仏法の真髄の偉大さを、日一日と実感せざるを得なくなっていた。

 

▪️漣

・学会は御仏意によってつくられる

 (前略)純粋な教団というものは、決して人工的な組織ではないのだ。御仏意によって出現した教団の組織は、わかりやすく言うならば、われわれが、つくるように見えても、所詮、御仏意によって、つくられていくものだ。

 

・一人立つ

日蓮大聖人の仏法の正法正義は、牧口常三郎という一人の仏法指導者の、妥協を許さぬ死身弘法の戦いによって守られた。また、戦後の創価学会の再建も、牧口の意志を受け継いだ戸田という一人の弟子の、広宣流布への誓いから始まった。広布に一人立つ師子との共戦こそが、学会という仏意仏勅の組織の根幹にほかならない。

 

・因果の理法

因果の理法を説く仏法から見れば、偶然に集まるということは、絶対にあり得ない。また、目的のない結合では、暗路の遠征となる。

 

・信心の実践のなかで、生命の使命を自覚する

「(前略)観念でわかるのと、実践でわかるのとでは、天地雲泥の差がある。皆さんは、信心の実践のなかで、わが生命の使命を自覚してほしい。未曾有の乱世に生まれて、仏の使いとしての使命を果たさんがために、われわれは願って、凡夫の姿となって生まれてきているんです。そのわれわれが、いつまでも凡夫の姿にとらわれて、実は仏の生命であるという自覚が少しもなかったならば、信心している意味は、なくなってしまう。(後略)」

 

・十界を具す人間の生命の革命が必要

「(前略)生命の働きというものは、十界を具している。そういうふうに、人間はできてしまっているのだ。この本質がわからないから、徹底した手が打てないでいるんです。したがって、文明は進歩するが、悪の文明も、それ以上に進歩するといえよう。社会が悪い、政治が悪いと、慨嘆するだけなら、誰にでもできることだ。事実、その通りだが、社会にしろ、政治にしろ、それを動かすのは人間だ。十界を具している人間の心というものは、妙であり、また恐ろしいものだともいえる。これに気がつけば、根本は、人間それ自身が革命されない限り、どんなに有効に見える対策も、皮相的な空念仏に終わるのは、当然ではないだろうか。(後略)」

 

山本伸一

しかし、この座に一人の青年がいた。彼は、戸田の言々句々を、そっくりそのまま、己の脳細胞に吸収して、ほとんど抵抗を感じなかった。彼は、一転を凝視するように、目を開き、身じろぎもせず、戸田のメガネの奥の瞳を見つめていた。

 

▪️結実

・生活に根を下す信心。不可能を可能にする御本尊の無量の功力

問題は千差万別で、なかには絶望的に思えるものもあった。しかし戸田は、たとえ最悪の場合であっても、実態を深く理解したうえで、信心を根底に、力強い指導をしていった。彼は、生活に根を下さない信心は弱く、気休めにすぎないこと、そのような信心では、問題解決への力とはならないことを強調した。戸田の指導には、気休めは一言もなかった。彼は数々の体験をあげて、不可能を可能にする御本尊の無量の功力を説いた。会員たちには、それは遠い周り道のように思えてならなかった。しかし結局は、これが唯一の具体的で、確実な道であることを、皆、納得していった。そして、納得してからは、自ら進んで行う信心へと、変わっていくのであった。

 

・どんなことでも、変毒為薬できないわけがない

戸田は、諄々と指導したあと、力強い声で言った。「男らしい信心に立ちなさい。そして、力ある人生を生きることだ。あなたの想像を絶した、実に見事な解決が必ずできる。それには、題目をあげきることです。どんなことでも、変毒為薬できないわけがない」

 

山本伸一の心境の変化

いつか彼は、妙法に哲学的な魅力を深く感じ始めていった。これまで読んだ書物の感銘が、ひどく色あせて思える時があった。彼は、それを病状のせいかと最初は思ったものの、知らないうちに、仏法で、それらの書物を批判している自分に気づいて驚いた。

 

・ある年配の壮年の体験

”もはや、一家心中をする以外にない……”そう確信した時に、知人から折伏を受けて入会した。彼は、藁にもすがる思いで懸命に信心に励んだ。願った通り、二カ月もたたないうちに就職先が見つかった。彼は、懸命に働いた。そして、入社六カ月で、給料は初任給の三倍になり、その後、借金もすべて返済できたのである。まさに生活革命の実証であった。

 

・体験の重要さ

このころから学会では、日蓮大聖人の仏法の正しさを実証するため、いろいろな人の体験談に力を入れていった。それは、体験ほど強いものはないからである。理論だけで正邪を争おうとすれば、観念の遊戯に陥りがちで、いつまでも平行線をたどってしまうことが多い。数多くの体験は、単なる観念ではなく、事実のうえからも、仏法の正しさを証明するものであった。美辞麗句の指導や、観念の理論よりも、現実の体験の方が人の心を強く打った。そんな話は偶然にすぎないと考える人が、いるかもしれない。しかし、それが何度も重なったり、多くの人びとが、一致してその実証を感じているのを知って、そこに何らかの必然的な法則性があることを、納得するであろう。

 

・信心を離れてはいけない

「『善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業』で、信心を離れて、幸福などは、絶対にあるわけはないのであります。『身子が六十劫』云々とは、身子、すなわち舎利弗は、過去世に六十劫もの長い期間、菩薩行を重ねながら、彼の善意を踏みにじるバラモンの振る舞いを見て、菩薩の修行をやめてしまった。そして、自ら成仏の道を閉ざしてしまった、ということです。

 

・哲学は実践をともなわなければならない

「民族が復興するには、必ず哲学が必要である。哲学は、また実践をともなわなければならない。実践のない哲学は、観念の遊戯にすぎないのです。(後略)」

 

▪️宣告

梵天・帝釈の治罰

一国が誤った宗教を尊崇し、正法を弾圧する時、梵天・帝釈が治罰を加えさせるーという仏法の法理が、かくも正確に、最後の裁判まで貫かれた実証を見たのである。”正法と邪法の区別”、正法を弾圧した時の梵天・帝釈による治罰ということを知っている者は、今の日本には皆無といってよい。それを語ったところで、誰も心から信じはしないであろう。現在は、そういう時だ。だからこそ、広宣流布の戦いを起こさねばならない”一切を現実に見た彼は、その一切を胸に畳んだ。

 

東京裁判の真の目的

では、東京裁判をあえて行った連合国の目的というものは、いったい何であったのか。それは、戦前の長年にわたある日本の政治の暗部を暴露すること自体にあったのかもしれない。神格化された天皇、神話的な国体、新兵の集団とされた軍部の暴虐、無謀な国家経営の実態……。そして、これらに踊った、かつての権力者や指導者の権威と権力を剥奪してみせることによって、目隠しされてきた国民の目を開こうとしたのであろう。そのために、欧米の民主主義的で公正な裁判のモデルとして法廷を公開し、日本国民に思想的ショックを与えようとしたのではなかろうか。このショック療法は、かなり成功したといえる。しかし、裁判の公正さという点では、大きな疑問を残したといえよう。

 

・心の本源

(前略)人間はまず、この不可解で、手にあまる、不思議な「心」というものについて、もっと深く認識する必要がある。「心」は、刻々と、さまざまに変化する。これは誰しも経験的に知っていることである。喜怒哀楽の感情、欲望や衝動……。しかし、それだけが心のすべてではない。思考や理性といった、考える力も心の働きにはある。また、小さな卑しい心もあれば、大きく深い心もある。他者に対し、温かい心も、冷たい心もある。他を犠牲にしても自らの欲望を満たそうとする利己の心もあれば、自らを犠牲にしても他に尽くす利他の心もある。それら「心」の不思議な有り様を、日蓮第聖人は次のように仰せである。「起るところの一念の心を尋ね見れば有りと云はんとすれば色も質(かたち)もなし又無しと云はんとすれば様様に心起る有と思ふべきに非ず無と思ふべきにも非ず」(御書三八四ページ)すなわち、瞬間瞬間に起こってくる一念の「心」は、「有る」と考えるべきでもないし、「無い」と考えるべきでもないのであるーと。(中略)大聖人は、この「有」でもなく「無」でもなく、しかも「有」であり「無」でもある「心」の本源を、「中道一実の妙体」(御書三八四ページ)であると仰せになっている。「中道一実の妙体」とは、言い換えれば「生命」ということである。ここでいう「生命」とは、宇宙の森羅万象すべての本源である。それを「中道一実の妙体」であると、仏法は説いているのである。戸田城聖は、獄中で、経典に説く「仏」とは、何ものであるかを追求した。そして、その根源にいたり、「仏とは生命なり」との悟達を得た。ここに日蓮大聖人の生命哲理が、現代に蘇生した淵源がある。問題の核心は、「生命」にあるのだ。

 

・大聖人の一念三千の生命哲理を我が生命に脈動させる

日蓮大聖人は、「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」(御書一〇八八ページ)との釈尊の言葉を用いて、人間としての誤りなき生き方を示されている。人は、ともすれば、自分の「心」を師とする。しかし、「心」は変化する。時には欲望に翻弄され、時には怒りや憎しみに支配される。二つの「心」、あるいは幾つもの「心」がせめぎ合うこともある。その定まらない「心」を師としている限り、争いの流転を断つことはできないであろう。ゆえに、最も大事なことは、「心の師」となり得る、強き回転軸を自己の内に確立することでなければならないはずだ。それには、いったい、何が不可欠なのか。それは、大宇宙を貫く「生命」の深理に求めざるを得ないであろう。その深理を教えているのが、大聖人の一念三千の生命哲理なのである。大宇宙を貫く大法に合致し、慈悲と智慧に満ち満ちた、何ものにも揺るがぬ「仏の生命」を、わが「生命」に脈動させること。そこに、崩れざる幸福と平和への道が開かれることを、仏法は教えているのである。

 

▪️道程

・大衆の心をつかむこと

指導者は、常に民衆の心の波が、何を願望し、どこに行こうとしているかを、知っていかなければならない。大衆の心をつかむことができるのは、いっぺんの指示でもなければ、命令でもない。機構や組織を動かしたところで、人心をつかむことはできない。その時と条件が整わなければ、民衆の心は動かないのである。大衆は賢である。大衆を、いつまでも愚と思っている指導者は、必ず大衆に翻弄されれていくことになろう。しなんに思われる広宣流布も、時と条件とが問題であって、それをいかにして創るかに、一切の困難と辛労が、かかっている。遥かなる千里の道は、それがいかに困難であろうと、辛労をいとわず、一歩一歩を進める以外に、克服する道はない。すなわち、指導者の億劫の労苦によってのみ、時を促し、条件を調えることができるのである。

 

・人間を育てるには?

 人間を育てるには、まず、よい友だち、よい先輩につかせることが大事だと、戸田は思っていたからである。

 

・御本尊を持つものは互いに誹りあってはいけない

御書には、「法華経を持つ者をば互いに誹るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏となり仏を誹りては罪を得るなり」(一三八二ページ)とある。御本尊を持って広宣流布に励む同志は、皆、地涌の菩薩であり、仏であるから、互いに誹るようなことがあってはならないとの仰せである。同志を誹る行為は、和合僧を破ることに通じ、その罪は、思いといわなければならない。

 

▪️注解

・十界互具の御本尊

仏教における本尊は、伝統的に仏菩薩の像であったが、これは、仏菩薩は衆生とは別次元の存在であることを示しており、衆生は仏菩薩に依存する立場に置かれている。しかし、法華経に明かされた十界互具の法理は、凡夫も仏も同じ人間であり、その違いは、十界互具の法理を悟るか否かにあることを明かしている。日蓮大聖人は、十界互具の御本尊を顕(あらわ)して、この御本尊を信受することによって、凡夫が自身の仏性を覚知し、そのままの姿で成仏することを教示されている。