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kaidaten's blog~書評ノート~

日経新聞の要約や書評を中心にエントリーしてましたが、最近はざっくばらんにやってます。

人間革命 第四巻

 

書評 

人間革命 第4巻 (聖教ワイド文庫 53)

人間革命 第4巻 (聖教ワイド文庫 53)

 

人間革命第四巻の圧巻は、三十四の「非」の解釈から始まる”生命”に関する仏法哲学

 

戸田城聖は獄中でひたすらに唱題を上げつつ「法華経」を学んでいた。その中で悟った”生命”の本質。それを創価学会機関誌「大白蓮華」創刊号の巻頭に寄稿するために彼は筆を取る。

 

日常の具体例をもとに三世にわたる生命の本質を解説した文章を読んだ時、私は心から感動した。久しぶりに書物から”感動”を得た。

 

獄中で一人この真理に至った戸田城聖という人物。そして遥か昔にそれを説いた日蓮大聖人の偉大さに気付くことができた。

 

仏法は実に深い。

 

 

 

内容抜粋 

▪️生命の庭

法華経に説かれた三十四の「非」の意味

其身非有亦非無(其の身は有に非ず亦た無に非ず)

非因非縁非自侘(因に非ず縁に非ず自他に非ず)

非方非圓非短長(方に非ず円に非ず短長に非ず)

非出非没非生滅(出に非ず没に非ず生滅に非ず)

非造非起非為作(造に非ず起に非ず為作に非ず)

非坐非臥非行住(坐に非ず臥に非ず行往に非ず)

非動非轉非閑静(動に非ず転に非ず閑静に非ず)

非進非退非安危(進に非ず退に非ず安危に非ず)

非是非非非得失(是に非ず非に非ず得失に非ず)

非彼非此非去来(彼に非ず此に非ず去来に非ず)

非青非黄非赤白(青に非ず黄に非ず赤白に非ず)

非紅非紫種種色(紅に非ず紫種種の色に非ず)

 

彼は、突然、「あっ!」と息をのんだ。「生命」ーという言葉が、脳裏にひらめいたのである。彼は、その一瞬、不可解な三十四の「非」の意味を読み切った。

「生命」は有に非ず亦た無に非ず

因に非ず縁に非ず自他に非ず

方に非ず円に非ず短長に非ず

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紅に非ず紫種種の色の非ず

”ここの「其の身」とは、まさしく「生命」のことではないか。知ってみれば、なんの不可解なことがあるものか。仏とは、生命のことなんだ!”彼は、立ち上がった。独房の寒さも忘れ去っていた。時間も、わからなかった。ただ、太い息を吐き、頰を紅潮させ、目は輝き、底知れぬ喜悦にむせびながら、叫んだ。「仏とは、生命なんだ!生命の表現なんだ。外にあるものではなく、自分自身の命にあるものだ。いや、外にもある。それは宇宙生命の一実体なんだ!」彼は、あらゆる人びとに向かって叫びたかった。狭い独房の中は、瞬間、無限に広大に思われた。やがて、興奮が静まると、端座して御本尊を思い浮かべ、夕闇迫るなかで、唱題を続けていくのであった。戸田城聖の、この覚知の一瞬は、将来、世界の哲学を変貌せしむるに足る、一瞬であったといってよい。それは、歳月の急速な流れとともに、やがて明らかにされていくにちがいない。彼は、仏法が、見事に現代にも、なお、はつらつと生きていることを知り、それによって、現代科学とも全く矛盾がないものであることを確信した。そして仏法に、鮮明な現代的性格と理解とを与えたのである。いや、そればかりではない。日蓮第聖人の仏法を現代に生かし、あらゆる古今東西の哲学を包含する生命哲学の誕生であった。法華経には、「生命」という言葉そのものはない。だが戸田は、不可解な三十四の「非」を表しているものが、実は、生命それ自体であることを、突き止めたのである。彼は、仏というものの本体がわかった。三世にわたる生命の不可思議な本体が、その向こうに遠く、はっきりと輪郭を現してきた思いがしたのである。

 

・口決相承の意味を悟る

日は暖かかった。春を思わせるような微風が、彼の頰をなでた。ほのぼのとした喜びが、どこからともなく湧いてくる。一切の苦悩を洗い流していくような、清浄で平穏な、それでいて無量の感動につつまれているのであった。

「是の諸の菩薩は、釈迦牟尼仏の説きたまう所の音声を聞いて、下従り発来せり。一一の菩薩は、皆な是れ大衆の唱導の首にして、各おの六万恒河沙等の眷属を将いたり。況んや五万・四万・三万・二万・一万恒河沙等の眷属を将いたる者をや。況んや……」(法華経四五二ページ)

ー彼は、自然の思いのうちに、いつか虚空にあった。数限りない、六万恒河沙等の大衆のなかにあって、金色燦然たる光を浴びて、御本尊に向かって合掌している、彼自身を発見したのである。夢でもない、幻でなもなかった。それは、数秒であったようにも、数分であったようにも、また数時間であったようにも思われた。初めて知った現実であった。喜悦が全身を走り、”これは嘘ではない、俺は、今、ここにいる!”と、自分に向かって叫ぼうとした。その時、またも狭い独房の中で、朝の光を浴びて座っている、わが身を感じたのである。彼は、一瞬、茫然となった。両眼からは熱い涙があふれてならなかった。彼は、メガネを外して、目を押さえたが、堰を切った涙は、とめどもなかった。おののく歓喜に全生命を震わせていた。彼は、涙のなかで、日蓮大聖人が、「御義口伝」で引かれた「霊山一会儼然未散(霊山の一会、儼然として未だ散らず)」(御書七五七ページ)という言葉を、ありありと身で読んだのである。彼は、何を見、何を知ったというのであろう。大聖人は、「三大秘法抄」のなかで、「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり」(御書一〇二三ページ)と仰せである。彼は、これまで、いつも、この「口決相承(くけつそうじょう)」とは何か、と頭を悩ませてきた。だが、ここに、何も不思議でないことを、遂に知ったのである。「口決相承」といっても、形式的な儀式ではないのだ。あの六万恒河沙の中の大衆の一人は、この私であった。まさしく上首は、日蓮大聖人であったはずだ。なんという荘厳にして、鮮明な、久遠の儀式であったことか。してみれば、俺は確かに地涌の菩薩であったのだ!”

 

・生命の意味 

”生命の問題は、理論の遊戯では解明できない。また、決して、そうであってもならない。そんなことには、既に人びとは飽きている。真実を知りたいのだ。私は、真実を、事実として知らしめたい。その真実は、わが肉団の胸中にあるのだ。わが胸中を、そのまま披瀝することが、わが生命論ではないか。素朴に、簡潔に、書くべきだ。難解な哲学用語を羅列しても、自分も他人もわからぬ理論のみでは、いつまでたっても、なんの価値もない。民衆は納得できないだろう”彼は一人、微笑を浮かべながら書きだした。「不潔の拘置所には、シラミが好んで繁殖する。春の陽光を浴びて、シラミは、のこのこと遊びにはい出してきた。私は二匹のシラミを板の上に並べたら、そんなことにとんちゃくなく動いている。つぶされたシラミの生命は、いったい、どこへ行ったのか。永久にこの世から消えうせたのであろうか」彼は、いたずらっぽい笑いを浮かべた。シラミとは、ちょっと不潔すぎた哲学論文かと思いながら……では、きれいな花のことも書いておこう、と考えた。彼は、いつしか楽しくなっていた。「また、さくらの木がある。あの枝を折って、かびんに差しておいたら、やがて、つぼみは花となり、弱々しい若葉も聞いてくる。このさくらの枝の生命と、元のさくらの木の生命とは、別のものであるか、同じものであるだろうか。生命とは、ますます不可解のものである」難解な問題を、最も身近なところから、わかりやすく知らせる努力をしたのが、彼の特徴であった。最も高遠な哲理も、卑近な日常のことのなかにある。これを洞察していた戸田城聖は、第一流の哲学者の資質を備えていたといえよう。

 

・言論の力

「相対が相対だけに終わるなら、なんの意味もないではないか。相手にとどめを刺すためには、ひとまず相手のベースまで下りていくことだ。そうすれば、やがて相手の誤謬も、弱点も、矛盾も、自然とわかってくる。そこで、それらの過誤に気づかせ、どう正しい論点まで引っぱり上げるかーこれが言論の力だ。説得力というものは、この時の力なんだよ。一方的な主張だけしていたのでは、喧嘩はできても、相手を心から納得させることはできない。ところで、大聖人様の説得力は、単なる説得力ではない。よく読んでみなさい。根本から慈悲から発している説得力だよ。だから偉大なんです。(後略)」

 

創価学会機関誌「大白蓮華」の目的 

「(前略)『大白蓮華』の目的は、日蓮大聖人の仏法こそ、最高の教えであることを、世間に知らしめていくことだ。要するに折伏だ。この目的だけは、みんなの胸に、しっかり叩き込んでおいてもらいたい。編集内容は、時代状況に応じて変わることがあったとしても、この根本精神だけは見失ってはならない。そうすれば、あとは大丈夫だ。

 

・生命の実在

戸田城聖は、不動の確信をもって、生命の「実在」を信じていた。それは、生物学的な、また医学的な意味でもなければ、現世の生死に限定した「生命」でもない。また、いわゆる霊魂などという存在とも異なる、生命そのものの実在であった。法華経の章句を文証として、前世、現世、来世の、いわゆる「三世」にわたる生命の実在を、彼は信ずることができたのである。彼は、釈尊よりも、はるかに深く、より本源的に生命の実在が説かれている、日蓮大聖人の「恩義口伝」等の諸御抄を拝読し、そのたびに深い感動を覚えながら、思索を重ねてきていた。

 

・あらゆる現象には因果がある。生命も例外ではない 

彼は「三世の生命」の章を書きながら、ふと念頭に、したり顔に冷笑するであろう現代知識人たちの顔が浮かんだ。彼は、挑戦するように書き続けた。「多くの知識人はこれを迷信であるといい、笑って否定するであろう。しかるに、吾人の立場からみれば、否定する者こそ自己の生命を科学的に考えない、うかつさを笑いたいのである。およそ、科学は因果を無視して成り立つであろうか。宇宙のあらゆる現象は、かならず原因と結果が存在する。生命の発生を卵子精子の結合によって生ずるというのは、単なる事実の説明であって、より本源的に考えたものではない。あらゆる現象に因果があって、生命のみは偶発的にこの世に発生し、死ねば泡沫のごとく消えてなくなると考えて、平然としていることは、あまりにも自己の生命にたいして無頓着者といわねばならない。いかに自然科学が発達し、また平等をさけび、階級打破をさけんでも、現実の生命現象は、とうてい、これによって説明され、理解されうるものではない。われわれの眼前には人間あり、ネコあり、イヌある、トラあり、すぎの大木があるが、これらの生命は同じか、違うか。また、その間の関連いかん」戸田は、現代知識人の、宗教に関する無知よりも、自己の生命に関する無知と無関心を突いたのである。さらに、生命の実在が、三世どころか、実は無始無終であることを、どのようにして説いたらいいか、考えあぐねるのだった。

 

・生命とは

「私に会通をくわえて本文をけがすことをおそるといえども、久遠の生命にかんして、その一端を左に述べていく。生命とは、宇宙とともに存在し、宇宙より先でもなければ、あとから偶発的に、あるいは何人かによって作られて生じたものでもない。宇宙自体がすでに生命そのものであり、地球だけの占有物とみることも誤りである。われわれは、広大無辺の大聖人のご慈悲に浴し、直達正観事行の一念三千の大御本尊に帰依したてまつって、『妙』なる生命の実態把握をはげんでいるのにほかならない」(中略)「あるいは、アミーバから細胞分裂し、進化したのが生物であり、人間であると主張し、私の説く永遠の生命を否定するものがあるであろう。しからば、赤熱の地球が冷えたときに、なぜアミーバが発生したか、どこから飛んできたのかと反問したい。地球雨にせよ、星にせよ、アミーバの発生する条件がそなわれば、アミーバが発生し、隠花植物の繁茂する地味、気候のときには、それが繁茂する。しこうして、進化論的に発展することを否定するものではないが、宇宙自体が生命であればこそ、いたるところに条件がそなわれば、生命の原体が発生するのである。ゆえに、幾十億万年の昔に、どこかの星に人類が生息し、いまは地球に生き、栄えているとするも、なんの不思議はないのである」(中略)「あるいは、蛋白質、そのほかの物質が、ある時期に生命となって発生したと説く生命観にも同ずるわけにはいかないのである。生命とは宇宙とともに本有常住の存在であるからである」

 

・生命と死

法哲学においても、死後の問題ほど、やっかいな問題はない。それこそ、最高の仏法的素養を要する問題であるからだ。死後の生命を語るにしても、おそらく一般には、誤解と曲解とをもってしか伝わらないであろう。戸田城聖は、この問題を、最も素朴に、極めて常識的に扱うことが、今は、まず肝要なことだと思った。彼は、経典や御書からの、さまざまな文証を引用することは、なるべく控えた。そして、誰が聞いても、疑う余地のない確実なことだけを書こうと決めたのである。「寿量本の自我偈には『方便現涅槃』とあり、死は一つの方便であると説かれている。たとえてみれば、眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的からみれば、単なる方便である。人間が活動するという面からみるならば、眠る必要はないのであるが、眠らないと疲労は取れないし、また、はつらつたる働きもできないのである。そのように、人も老人になったり、病気になって、局部が破壊したりした場合において、どうしても死という方便において、若さを取り返す以外にない」(中略)「われわれの心の働きをみるに、喜んだとしても、その喜びは時間がたつと消えてなくなる。その喜びは霊魂のようなものが、こかへいってしまったわけではないが、心のどこかへ溶けこんで、どこをさがしてもないのである。しかるに、何時間か何日間かの後、また同じ喜びが起こるのである。また、あることによって悲しんだとする。何時間か何日か過ぎて、そのことを思い出して、また同じ悲しみが生ずる生ずることがある。人はよく悲しみをあらたにしたというけれど、前の悲しみと、あとの悲しみと、りっぱな連続があって、その中間はどこにもないのである。同じような現象が、われわれ日常の眠りの場合にある。眠っている間は、心はどこにもない。しかるに、目をさますやいなや心は活動する。眠った場合には心がなくて、起きている場合には心がある。有るのがほんとうか、無いのがほんとうか。有るといえば無いし、無いとすれば、あらわれてくる」(中略)前にも述べたように、宇宙は即生命であるがゆえに、われわれが死んだとする。死んだ生命は、ちょうど悲しみと悲しみとの間に何もなかったように、喜びと喜びの間に、喜びがどこにもなかったように、眠っている間、その心がどこにもないように、死後の生命は宇宙の大生命に溶けこんで、どこをさがしてもないのである。霊魂というものがあって、フワフワ飛んでいるものではない。大自然のなかに溶けこんだとしても、けっして安息しているとは限らないのである。あたかも、眠りが安息であるといいきれないと同じである。眠っている間、安息している人もあれば、苦しい夢にうなされている人もあれば、浅い眠りに悩んでいる人もあると同じである」彼は、この面倒な死後の生命について、科学的に実証できない現在、これは、一応、仮説とみなされても仕方ないと思った。ただ、この仮説を率直に信じ、真面目に行じた人たちの人生が、見事に自己の宿命を転換させ、即身成仏を実証している事実だけは、彼は、身をもって知っていた。

 

・哲学者としての戸田

(前略)このデカルトと戸田の、二つの論文を読み比べてみれば、直ちにわかることがある。それは、ともにその発想の仕方において、極めて相似た明晰さをもつことである。数百年に一度、あるかないかといった秀抜な発想を、両者とも自分の日常の体験と、日常のありふれた言葉で語ることから始め、その発想の場の設定のうえに、不滅の哲学を発芽させたことである。 

 

衆生も仏の一つ 

戸田は、日蓮大聖人の教えのままに、あらゆる苦難に耐えて、純粋に実践した果てに、「生仏一如(しょうぶついちにょ)」つまり衆生も仏も一つという、生命の実相を知ったのである。同時に、それが、この世界の悲惨を絶滅する、唯一の法理であるとの確信をもった。

 

▪️時流

毛沢東率いる中国の人民解放軍共産党軍)の勝利が意味するもの 

勝敗の帰趨を決したのは、兵力や作戦ではなかった。人民解放軍への民衆の支持が、勝敗を決したといってよい。人心の動向を知り、時代の潮流に乗らなければ、どんなに優れた近代兵器を持ち、卓絶した智謀を発揮したとしても、最後には敗れ去っていくという教訓を示したようなものであった。

 

・社会建設の時代に入った広宣流布を前にした戸田城聖の激励

「(前略)どんなことがあっても、根本に強盛な信心だけは忘れてはなりませんぞ。信心でいかなるものにも必ず勝てるからだ。その時には、みんな結束して壮烈に戦おうではないか」

 

・題目を唱えた上で建設的に行動していくこと

「(前略)ただ題目さえ唱えていれば、それだけでよいというものでは決してない。四条金吾が、敵に狙われて危険な時、大聖人は微に入り細をうがってのご注意を、こまごまとお認めになっているではないか。こういう時こそ、まさに『各各用心有る可し』(御書一七七ページ)」の御金言を、かみしめるべきだ。よく考えた方がいい」

 

▪️波紋

・事業家としての戸田の人間性

彼は、事業においては、しばしば目を見張るような英断で、人びとを驚かせた。同時に、貧窮に沈んでいる人たちに、身を捨てて救いの手を差し伸べ、彼を知る人びとを驚かすこともしばしばであった。つまり、戸田城聖という事業家は、現代事業家が持たざるを得ない、ある種の冷酷さを、全く欠いていたといえるであろう。

 

・第四回夏期講習会にて

人びとの功徳の現証は、花盛りのように咲きそろってきた。この講習会の五日間で、驚くべき体験を語った人が、六十二人に達したことでも、その事実が証明されるのである。

 

・人生の勝敗 

「長い人生には、敗れることもあるよ。しかし、一回や二回、敗れたからといって、人生全部が負けたということとは、意味が違うものだ」敗れることは、人生にも、事業にもあるだろう。しかし根本的な勝敗は、一生涯を通してみなければ、論ずることはできあいー哲学青年・伸一は、それを確かな道理であると、考えたりしていたのである。

 

・本質は何が起ころうと不変

”私もまた、何がどうなろうとも、山本伸一山本伸一でなければならぬ。私もまた、不変であるはずだ。どんな境遇に落ちようと、私という人間の本質が変わるはずはない。ただ、世間の人びとの眼に、変わったと見えるだけではないか。してみれば、世間の人びとの目玉というものが、当てにならないだけの話だ。風向きによって動くような、社会の目玉を恐れるということほど、愚かなことはない、先生が不変であり、私も不変だ。それで十分ではないか。(後略)”

 

山本伸一にとっての書物

書物は精神の滋養であり、苦闘に立ち向かう勇気の源泉となるーそれは、伸一の実感であった。彼の頭のなかは、仕事と読書が交錯することが幾たびもあった。しかし、青年らしく、知識を吸収しながら、そのエネルギーを、いつも仕事に費やしていった。

 

・必ず活路は開ける

「どんな事業であろうと、時に浮き沈みはあるものだ。経済には経済の法則というものがある。それを無視することはできないのです。その法則を見極めたうえで、事業の興亡を左右するものは、努力と情熱と忍耐である、ということを知るべきです。どんな大きな事業であろうと、どんな小さな事業であろうと、その苦労は同じだと思う。ぼくの、これまでの経験から言うならば、苦労さえいとわなければ、行き詰まったように思える時でも、必ず活路が開けてくるものだ」

 

▪️疾風

・開目抄の一節。学会活動が父母を救うことになるはず

体も仕事も、二つとも最悪の危機に見舞われてしまっていた。活路を求めて、最大の努力はしていた。だが、時にはあがけばあがくほど、足は深いぬかるみに吸い込まれていくような思いがした。彼は、このような時、毎夜、御書の一節を拝読していった。そして、それを日記に書きとめる習慣が、いつか身についていた。それは、孤独な彼にとって、唯一の深夜の会話といってもよかった。それはまた、彼の心に尽きぬ光明をともしたのである。そのようなある夜更け、彼は「開目抄」をひもといているうちに、ふと次の一節が目に入った。「父母の家を出て出家の身となるは必ず父母を・すくはんがためなり」(御書一九二ページ)彼は、現在の生活を、大聖人に肯定していただいた思いがした。出家といっても、剃髪するわけではなかったが、彼もまた、偉大な宗教革命家としての生涯を、自らの使命としているからには、家を出て、戸田の膝下で全力投球で働いている、この自分こそ、必ず父母を救うことになるのだと、思いを新たにしたのであった。

 

▪️怒涛

・仏法の世界に、意味のないことはあり得ない

「信心が敗れないならば、たとえ地獄の苦しみに落ちようが、大聖人様は、必ず救いの手を差し伸べてくださるに決まっている。今、ぼくは大聖人様のお叱りを受けているのだろう。仏法の世界に、意味のないことはあり得ない。君たちには、すまない思いだが、自分では、ありがたいことだと思っているんです」

 

・本然の姿だけは、いかなる時にも失うまい

伸一は、思った。”組合はつぶれ、学会の理事長も辞任したというのに、先生は、こうして懸命に将棋盤をにらんでいる。先生の姿を見ていると、すべての苦境が、嘘のようにも、悪夢のようにも思える。これが、先生の本然の姿なのかもしれない。自分も、今、苦しみ悩んでいる日々の活動は、仮の姿なのかもしれない。いずれにせよ、本然の姿だけは、いかなる時にも失うまい”

 

・戸田を悩ませた事業の試練の意味とは?

(前略)ただ彼に、その本来の使命の自覚を促し、その覚悟に立たせるためには、事業における過酷な試練を必要としたのである。彼が、経済的挫折に苦しんだのは、「願兼於業(がんけんおごう)」のゆえであったといえようか。この道程において、彼の使命の自覚は、初めて不動のものとなったのである。

※願兼於業:「願い、業を兼ぬ」と読む。本来、修行の功徳によって安楽な境涯に生まれるべきところを、苦悩に沈む民衆を救済するために、自ら願って悪業をつくり、悪世に生まれて仏法を弘通すること。中国の妙楽大師の『法華文句記』にある言葉

 

▪️秋霜

・仏の生命の発現

御書には、「一年に億刧の辛労を尽くせば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり」(七九〇ページ)との御文がある。ー永劫に重ねるがごとき辛労を、一瞬一瞬に尽くしていくならば、本来、自分の生命に備わっている「無作の三身」すなわち本源的な仏の生命が、瞬間瞬間に起こってくる、との仰せである。