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kaidaten's blog~書評ノート~

日経新聞の要約や書評を中心にエントリーしてましたが、最近はざっくばらんにやってます。

STAP細胞問題の裏側〜あの日(小保方晴子)〜

書評 

日本科学史上に残る大問題「STAP細胞事件」。当時、渦中にあった小保方晴子氏の姿をメディアを通して見ない日はなかった。ワイドショーでパロディ化された小保方氏の姿は一人歩きし、匿名掲示板も賑わいを見せた。

 

その裏側で何が起こっていたのか。小保方氏が自伝形式の書籍を出版した。

 

おそらくゴーストライターを起用したものだろうが、幼少期から研究者時代、あの論文問題に至るまで、彼女を取り巻いた環境を時系列で赤裸々に綴っている。

 

 

 

読んだ感想。

 

科学的な真実がどうであったのかは分からない。分からないが、小保方氏の言い訳がましい言い回しが散見されたものの、当時彼女を襲った報道陣の脅威は相当なものであったようだ。一国のメディアが個人に牙を向くときの邪悪さを垣間見ることができた。

 

そして論文の問題。私自身、国立大学にマスターまで在籍していたが、あの事件でスポットライトが当たった”盗用”の問題は氷山の一角に過ぎないと感じる。研究者が自分の都合に合わせてデータを選定したり、いじくり回したりすることはよくある。過去の論文の内容を拝借することもしばしばだ。そのような環境に当たり前に接していたことに若干の恐怖を感じた。

 

あの事件により、日本科学会が受けたダメージは大きい。一人の非常に優秀な科学者の命が奪われたことは、国益を損なったと言っても過言ではない。日本科学会の古くからの体質や、当の小保方氏に非難が集まったのも当然といえば当然だ。

 

ただ、一方で、人の精神を追い詰め、”死”に至らしめた日本メディアの体質。その陰険さが浮き彫りになった”事件”でもあったのだと私は思う。

 

内容抜粋

ヒツジでの苦労を参考に、培養皿はインサートを用いて、培養液の添加因子の種類や量を変更したり、培養時の細胞の濃度を検討しなおすなどの工夫を加え、何度か培養を試みると、大人のマウスの表皮細胞も培養できるようになった。誰に頼まれた実験でもなかったのだが、ひょっとしたら私の研究成果の中では最も大きな発見だったかもしれない。その後行った体毛が生え揃う前の赤ちゃんマウスの表皮細胞の培養はずっと簡単だった。たまたま、この頃、上皮研究では世界的な権威であるハーバード大のある教授の研究員ら、上皮細胞の培養法の技術指導を依頼された。「できれば、マウスの培養表皮細胞で研究できたら最高なんだけど、無理なんだよね」と言った研究員に、「実は最近、いろいろ試してたらマウスの表皮が培養できるようになった」と告げると、「ぜひ教えてほしい」と頼まれた。その研究員とテクニカル・スタッフの2名に、マウスの表皮細胞の培養法を指南することになった。それからしばらくすると、彼らの研究室の教授自ら、私のもとを訪れてくれて、丁寧にお礼を述べてくれた上に、一緒に培養されたマウスの表皮細胞を観察して、さまざまな意見を求められた。楽しそうに顕微鏡を覗く教授の姿は、どんなに偉くなっても尽きない研究への興味を体現しているようでとても印象的だった。

 

とにかく論文を読んだ。2008年から幹細胞生物学の歴史を遡っていくと、100年近く前の、幹細胞の概念が確立されていなかった頃の発生学の論文にまでたどり着いた。まだ近代的な解析技術が確立されていない時代の「現象の観察」のみから書かれた論文は、研究者の自由な発想がそのまま記述されていて、その洞察の深さに強く感化された。観察された現象の不思議さと自然の法則とのつながりを広い視野でとらえた数多くの論文に触れることができ、古い文献を読み込むうちに、凝り固まっていた自分の思考が解放されていくのを感じた。自分なら同じ現象を観察してどんな意見を持つだろうかと空想し、まるで初めて宇宙を見たような、そんな感覚に包まれていた。解析技術の発展とともに多くの生命現象が細かく正確に理解されるようになっていく過程を感じ取るのも興味深かった。2008年までの間、どんな考えが発表され、学術界で流行の潮流を作っていったのか、その間どのような学説が間引かれていったのか、一日に20種以上の論文を読み、新しい知識を入れ、自分なりの考えをまとめる作業は楽しく、時間を忘れるほどだった。なにより、科学の根本にある自然の法則にもとづく研究者の発想の自由さ深遠さに触れることができたことは貴重な体験だった。

 

発表を終えると、バカンティ先生は目をつむりながら両手で固くこぶしを作った後、目を見開き、「過去15年間で最高のプレゼンテーションだった」と満面の笑みで大げさに褒めてくださった。私が早稲田大学から提示されていた半年の留学期間は終わろうとしていることを告げると、バカンティ先生は「留学期間を延長できるように早稲田の先生たちにレターを出す」と言ってくださり、最後に「これから先の留学にかかる生活費、渡航費は僕が援助する」と皆の前で宣言し、私に向けてニマリと、がんばれという合図のような笑顔を向けた。ミーディング・ルームからの帰り道、ヴァネッサとセレナと腕を組みながら研究室に向かって歩いていた。ヴァネッサからは、「アメリカではお金を払うという宣言は能力をを認めたという意味なのよ。よかったわね」と言ってもらった。セレナからは「とにかくもっと長くハルコと一緒にいられることが決まってうれしい」と言ってもらい、ヒツジ小屋を覗いてから研究室に戻ると言っていたアナも走って追いかけてきて、「ハルコやったわね」と後ろから抱きしめてくれた。

 

今回の論文執筆の場合も、若山先生が作製したキメラマウスという重要なデータに対して、つじつまが合うように仮置きのデータが置かれ、ストーリーに合わせた補佐のデータを作っていく若山研での方法に従って行われていた。ストーリーに合わない、つじつまの合わない実験結果は、「このままでは使えないのでやり直すか、データとして使用しないように」と指導を受けた。若山先生自身が行った実験であっても、正常に生まれてくることが望まれていた胚操作によって生まれてきたマウスの赤ちゃんにヘルニアなどの異常が見られた場合には、「お母さんマウスに食べられちゃったことにしよう」と若山先生がおっしゃり、データには用いられなかった。ある先輩は若山先生から頼まれ、ある遺伝子の有無を調べる実験をしていたが、2種類の調べ方で結果が異なってしまったという。「気まずいなぁ」と私に漏らしながら若山先生に報告に行き、帰ってくると「ストーリーに合うほうのデータだけを採用することになった」と言っていた。当時の私は再現性のあるデータをわかりやすく提示することが論文の図表の役割であると理解していたので、若山先生の了承が出るまで実験を続け、図表を作成していた。

 

「ネイチャー誌には何度も論文が通った経験があって、論文を投稿してリジェクトになったことはここ数年まったくない」という言葉が脳内でこだました。この言葉を聞いて衝撃を受けない研究関係者はほとんどいないと思う。研究に少しでも携わっている人なら、リジェクトにうなだれる経験をするが、うなだれている人を目撃する機会のほうが、アクセプトを喜ぶ回数よりも圧倒的に多いはずだ。ネイチャーなどのトップジャーナルに当然のように論文が通る研究者は世界でほんの一握りしかいない。

 

週末を挟んだ12月26日、笠井研に出向くと、笠井先生が英語の辞書を持って研究室に立っていた。「クリスマスの間、ずっと細胞の名前を考えていたんだけど、STAPっていうのはどうかな。カルスというのは英語で皮膚にできるタコっていう意味だから外国人からはイメージしにくい。他の意味を持たない単語で命名、表記するのがいいと思うんだ。STAP(Shimulus Triggered Acquisition of Pluripotency:刺激惹起性多能性獲得)はあなたが発見した現象をストレートに伝えると思う」と、ちょっとウキウキした感じで話された。なんとなくもう、押し切られた感じだったが、こうして細胞の名前は「STAP細胞」と論文に表記されることに決まった。

 

2013年12月21日、ネイチャーから正式にアクセプトの知らせが来た。喜びよりも、「ようやく終わった」という思いのほうが強かった。通常、論文が受理されると、出版社によって雑誌の掲載様式に原稿が変更される作業が数週間かけて行われる。その後、雑誌に掲載されるまでの間に、著者らによる掲載様式に変更された最終原稿の見直しを依頼され、その意見をもとに最終の訂正作業が行われる。ネイチャーから、今回は受理の日からわずか1ヵ月ほどで雑誌に掲載されるという連絡があった。年末年始を挟んでいたこともあり、他の著者と連絡が取りにくい中で、ネイチャーから依頼された2報の最終原稿の見直し期間はたった数日と極端に短かった。しかも私は、論文発表後の研究計画を考えたり、新しい研究室で実験を立ち上げていくための準備で目が回るほど忙しく、最終原稿の見直し期間に過労で高熱を出してしまい、ほとんど見直しができなかった。この時に著者全員で、それぞれが論文に掲載されたデータを見直して、必要な訂正をしていれば、その後の騒動の多くは妨げたのではないかと思うと今も悔やまれてならない。 

 

高圧的な調査委員会の様子を見ると、理研が私を守ってくれそうにないことは明らかだった。実際、理研内でサポートしてくれる人はいなかった。女子医大にいた頃の先輩から弁護士を雇うことを強く勧められれ、2014年3月中旬、知人の紹介で最低限の人権を守るため片山登志子弁護士を紹介してもらった。案件が大きすぎることを理由に、最終的に合計4人の弁護士にサポートをお願いすることになった。この頃の私は食べることも眠ることもできず、ストレスで起き上がることもできなくなってしまっていた。激しいバッシングの報道がひたすら続き、家族からも泣きながら電話がかかってきた。家族に辛い思いをさせていることも本当に辛かった。無意識のうちに「死にたい」と何度もつぶやくようになった。母が神戸まで迎えに来てくれ病院に行った。睡眠薬抗鬱剤を処方され、通勤はもうできなくなった。この時に診断書が出され、理研に提出していたが、高圧的にな調査において、私の健康状態が改善されることはなかった。

 

マンションの共通玄関はオートロックだったが、部屋の前まで侵入してきてインターホンを押す記者も少なくなかった。第一次調査委員会の調査結果を聞いた2014年3月31日、ショックと疲労でおぼつかない足取りでの帰り道、マンションの前でフラッシュを浴びた。マンションの中に逃げ込むと、カメラマンや記者が一緒に中まで入ってきて、録音しながら矢継ぎ早に質問をされた。無理やり渡された名刺には「週刊新潮」と書かれていた。部屋の前まで侵入してきた見覚えのある顔の記者もいた。恐怖で足の震えが止まらず、初めて警察を呼んだ。その時に撮られた写真は早速、翌週には週刊新潮に掲載され、震えながら発した言葉も、「一問一答」などと見出しをつけられ記事化されていた。

 

その後、個人攻撃的な内容の「NHKスペシャル」が放送されていた。番組の中では、笠井先生たちが「友人」と呼んでいた分子生物学会の研究者たちが出演して、番組の制作に協力していた。秘匿情報であるはずの調査委員会に提出した資料や私の実験ノートのコピーなどがすべて流出し、無断で放送に使用されたうえ、私が凶悪な捏造犯であるかのような印象を持たせるように、一方的な情報提供によって過剰演出された。国民の受信料で運営される公共のテレビ局によって個人攻撃的な番組を放送されたことで受けた恐怖と心の痛みや悲しみは、言葉で表現することなどできない。

 

不思議と今でも実験している夢を見る。心はもちろんウキウキしていて、ピペットマンが押し返してくる感触を右手に感じる時すらあるのだ。でも、その夢から覚めた時、思い描いていた研究をもうできないんだなと思うと、胸が詰まり、涙が勝手にこみ上げてくる。