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kaidaten's blog~書評ノート~

日経新聞の要約や書評を中心にエントリーしてましたが、最近はざっくばらんにやってます。

職業としての小説家(村上春樹)

 書評

村上春樹の自伝的小説ということで、さっそく書店で流し読み。日本を代表する小説家の人となりをかなり詳細に知ることができた。文学作家の思想に、小説を介さず直接触れることができる機会は意外と少ない。このような形式の書籍は、私にとってありがたいものだ。

 

 

 

以前、村上春樹のデビュー小説「風の歌を聴け」の書評をエントリーしたことがある。「全体的に何を伝えたい作品なのかよくわからなかった」と感想を書いた。

 

本書を読むことで、どのような過程で彼が小説家になることを決意し、この処女作が生まれたのか私は知ることができた。誕生の背景を踏まえた上で改めて作品を読み返すと、作品に対して抱く印象がかなり異なる。「風の歌を聴け」には、彼自身の当時の生活や価値観が色濃く反映されていることを理解した。

 

村上春樹の作品は彼自身の内的な衝動から生まれてくるという。もちろん海外での生活も含め、彼がこれまで経験したことは彼が書き起こす文章に反映される。ただ、あくまでも彼内部の変化を触媒として村上作品は生まれるのだ。一人の人間の内側から湧き出た作品が、何万人もの読者を魅了している。なかなか奇跡的なことだと思わないだろうか。

 

また、小説を書き続けることにはかなりの克己心を必要とするようだ。特に文壇の舞台に長期間立ち続けるには、意識的に自分をコントールする必要がある。村上春樹が毎日、有酸素運動を取り入れた規則的な生活を送っている理由はそこにある。野球の世界で長く活躍するイチロー選手の整えられた生活リズムはかなり有名だが、彼の生き方もそれに通じるものがあると思う。精神と身体は密接にリンクしているのだ。

 

「脳内にある海馬のニューロンが生まれる数は、有酸素運動をおこなうことによって飛躍的に増加する。そして生まれたばかりのニューロンに知的刺激を与えると、それは活性化し、脳内のネットワークと結びつけられ、信号伝達コミュニティーの有機的な一部となる」「フィジカルな力とスピリチュアルな力は、バランス良く両立させなくてはならない。」

 

この科学的事実と村上春樹のバランスの取れた思考。本書の中で最も印象に残ったのは、意外とそういうところであった。最高の作品は地道な克己心から生まれる。

 

内容抜粋

・本を読むこと

ただ本を読むのは昔から好きで、ずいぶん熱心に本を手に取っていました。中学・高校を通じて僕くらい大量の本を読む人間はまわりにいなかったと思います。それから音楽も好きで、浴びるようにいろんな音楽を聴いていました。

 

村上春樹の取り柄

「好きなことならとにかく、文句を言わずに一生懸命やる」というのが取り柄です。

 

・小説家になることを決意した瞬間 

バットがボールに当たる小気味の良い音が、神宮球場に響き渡りました。ばらばらというまばらな拍手がまわりから起こりました。僕はそのときに、何の脈絡もなく何の根拠もなく、ふとこう思ったのです。「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と。そのときの感覚を、僕はまだはっきり覚えています、それは空から何かがひらひらとゆっくり落ちてきて、それを両手でうまく受け止められたような気分でした。(中略)それは、なんといえばいいのか、ひとつの啓示のような出来事でした。英語にエピファニーepiphany)という言葉があります、日本語に訳せば「本質の突然の顕現」「直感的な真実把握」というようなむずかしいことになります。平たく言えば、「ある日突然何かが目の前にさっと現れて、それによってものごとの様相が一変してします」という感じです。それがまさに、その日の午後に、僕の身に起こったことでした。それを境に人生の様相はがらりと変わってしまったのです。ディブ・ヒルトンがトップ・バッターとして、神宮球場で美しく鋭い二塁打を打ったその瞬間に

 

・オリジナルの定義

僕の考えによれば、ということですが、特定の表現者を「オリジナルである」と呼ぶためには、基本的に次のような条件が満たされていなくてはなりません。(1)ほかの表現者とは明らかに異なる、独自のスタイルを有している。ちょっと見れば(聴けば)その人の表現だと(おおむね)瞬時に理解できなくてはならない。(2)そのスタイルを、自らの力でヴァージョンアップできなてくはならない。時間の経過とともにそのスタイルは成長していく。いつまでも同じ場所に留まっていることはできない。そういう自発的・内在的な自己革新力を有している。(3)その独自のスタイルは時間の経過とともにスタンダード化し、人々のサイキに吸収され、価値判断基準の一部として取り込まれていかなくてはならない。あるいは後世の表現者の豊かな引用源とならなくてはならない。

 

・小説を書く根本

僕は思うのですが(というか、そう望んでいるのですが)、そのような自由でナチュラルな感覚こそが、僕の書く小説の根本にあるものです。それが起動力になっています。

 

・小説の執筆に渾身の力を捧げる

今の時点で言えるのは、僕はそれらの作品を書くにあたって惜しみなく時間をかけたし、カーヴァーの言葉を借りれば、「力の及ぶ限りにおいて最良のもの」を書くべく努力したということくらいです。どの作品をとっても「もう少し時間があればもっとうまく書けたんだけどね」というようなことはありません。(中略)僕はそのような書き方を可能にしてくれる、自分なりの固有のシステムを、長い歳月をかけてこしらえ、僕なりに丁寧に注意深く整備し、大事に維持してきました。汚れを拭き、油を差し、錆びつかないように気を配ってきました。そしてそのことについては一人の作家として、ささやかではありますが誇りみたいなものを感じています。

 

・健康な身体、運動の重要性

長い歳月にわたって創作活動を続けるには、長編小説作家にせよ、短編作家にせよ、継続的な作業を可能にするだけの持続力がどうしても必要になってきます。それでは持続力を身につけるためにはどうすればいいのか?それに対する僕の答えはただひとつ、とてもシンプルなものですー基礎体力を身につけること。逞しくしぶといフィジカルな力を獲得すること。自分の身体を味方につけること。(中略)僕はある若手の作家からインタビューを受けたとき、「作家は贅肉がついたらおしまいですよ」と発言したことがあります。(中略)また最近の研究によれば、脳内にある海馬のニューロンが生まれる数は、有酸素運動をおこなうことによって飛躍的に増加するということです。有酸素運動というのは水泳とかジョギングとかいった、長時間にわたる適度な運動のことです。ところがそうして新たに生まれたニューロンも、そのままにしておくと、二十八時間後には何の役に立つこともなく消滅してしまします。実にもったいない話ですね。でもその生まれたばかりのニューロンに知的刺激を与えると、それは活性化し、脳内のネットワークと結びつけられ、信号伝達コミュニティーの有機的な一部となります。つまり脳内ネットワークがより広く、より密なものになるわけです。そのようにして学習と記憶の能力が高められます。そしてその結果、思考を臨機応変に変えたり、普通ではない想像力を発揮したりすることができやすくなるのです。より複雑な思考をし、大胆な発想をすることが可能になります。つまり肉体的運動と知的作業との日常的なコンビネーションは、作家のおこなっているような種類のクリエイティブな労働には、理想的な影響を及ぼすわけです。

 

・バランス

フィジカルな力とスピリチュアルな力は、バランス良く両立させなくてはならない。それぞれがお互いを有効に補助しあうような体勢にもっていかなてくはならない。戦いが長期戦になればなるほど、このセオリーはより大きな意味あいを持ってきます。

 

村上春樹にとっての「本」

もし本というものがなかったら、もしそれほどたくさんの本を読まなかったなら、僕の人生はおそらく今あるものよりもっと寒々しく、ぎすぎすしたものになっていたはずです。

 

・教育に関する考え方

どんな時代にあっても、どんな世の中にあっても、想像力というものは大事な意味を持ちます。想像力の対極にあるもののひとつが「効率」です。数万人に及ぶ福島の人々を故郷の地から追い立てたのも、元を正せばその「効率」です。「原子力発電は効率の良いエネルギーであり、故に善である」という発想が、その発想から結果的にでっちあげられた「安全神話」という虚構が、このような悲劇的な状況を、回復のきかない惨事を、この国にもたらしたのです。(中略)ひとつの国を滅ぼすかもしれない危険性をはらんだシステムが「数値重視」「効率優先」的な体質を持つ営利企業によって運営されるとき、そして人間性に対するシンパシーを欠いた「機械暗記」「上位下達」的な官僚組織がそれを「指導」「監視」するとき、そこには身の毛もよだつようなリスクが生まれます。それは国土を汚し、自然をねじ曲げ、国民の身体を損ない、国家の信用を失墜させ、多くの人々から固有の生活環境を奪ってしまう結果をもたらすかもしれません。というか、それがまさに実際に福島で起こったことなのです。(中略)今からでも遅くはありません。我々はそのような「効率」という、短絡した危険な価値観に対抗できる、自由な思考と発想の軸を、個人の中に打ち立てなくてはなりません。(中略)僕が学校に望むのは、「想像力を持っている子供たちの想像力を圧殺してくれるな」という、ただそれだけです。

 

・生きた登場人物はひとりでに歩き出す 

本当に生きた登場人物は、ある時点から作者の手を離れ、自立的に行動し始めます。これは僕だけでなく、多くのフィクション作家が進んで認めていることです。

 

・日本人作家としての責務

僕が海外でできるだけ人前に出るように努めているのは、「日本人作家としての責務」をある程度進んで引き受けなくてはならないという自覚をそれなりに持っているからです。