深夜特急5〜トルコ・ギリシャ・地中海〜
書評
シリーズ第5弾は、ひたすら内面と向きあう。
どこに行っても、もう既に経験したように感じてしまう、好奇心が磨耗してしまう、
旅を人生に例えて、死を意味する旅の終焉を恐れる描写もあった。
トルコである女性と出会う描写があった。なんでもない話だけど、センチメンタルなこの作品を印象づけているシーンだと思った。
いよいよ次でラスト。
内容抜粋
暖房のおかげで車内は暖かいが、外は相当に冷え込んでいるようだった。ふたたび眼を開け、車内灯に照らされてぼんやり映る自分の顔を見ているうちに、胸の奥に小さな痛みが走った。だが、私はそれについては考えないことにして、その向こうの闇を見続けた。
旅を終えなければならなくなることへの恐怖が、金を使うことに関して私を必要以上に臆病にさせていた。
「どうして?」私が訊ねると、彼はたどたどしい英語で答えた。
「メモリー」記念だから?
「ワン」ひとつで?
「ノー・ツー」ふたつはいらない?
「イエス、イエス」
ほぼ六時間も茫然と窓の外を眺めていたらしい。いや、外は闇だったから、眺めていたのは私の心の奥だったのかもしれない。
「今朝、センセのことを思ってた」
私は方を並べて歩きながら黙って彼女の話に耳を傾けた
「だから、あなたのことを電話で聞いた時も少しも驚かなかったの」
たぶん、本当に旅は人生に似ているのだ。どちらも何かを失うことなしに前に進むことはできない……。
アクロポリスの丘で生きていたのは野良猫だけだった。
旅がもし本当に人生に似ているものなら、旅には旅の障害というものがあるのかもしれない。人の一生に幼年期があり、少年期があり、青年期があり、壮年期があり、老年期があるように、長い旅にもそれに似た移り変わりがあるのかもしれない。私の旅はたぶん青年期を終えつつあるのだ。
用意されたベッドで横になった私は、電気を消した部屋の中でなかなか寝つかれなかった。それはベッドのスプリングや枕のせいではなく、この一夜が旅の神様が与えてくれた最後の贈り物なのかもしれないな、という感傷的な思いがどうしても消えようとしなかったからだ。